石川祐希を「封印」 恩師の決断が生んだ高校6冠 「体に積んでいたのはスペースシャトルのエンジン」

 春高バレー2連覇で高校6冠を決め、ガッツポーズする星城・石川(1)と川口(12)=14年1月 
 15年4月、セリアAモデナ時代の石川(中央)のもとへ訪れた竹内総監督(右)と川口さん(竹内総監督提供)
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 10月に閉幕した男子バレーボールのパリ五輪予選で、2008年北京五輪以来16年ぶりの自力出場(21年東京五輪は開催国枠)をつかんだ日本代表。その中心にいたのが主将で、絶対的エースの石川祐希(28)=ミラノ=だ。競技を始めた原点、学生時代からここまでの道のりを全3回にわたって掲載していく。2回目は「恩師との出会いと史上初の高校6冠」。

 石川の成長には恩師の存在が欠かせなかった。スパイク練習中に右腹筋が切れた高校1年夏。それ以降、当時、愛知の名門・星城高バレーボール部監督だった竹内裕幸さん(現総監督)は大胆な起用法を決断した。

 体力面、集中力の低下、けがのリスクを考慮して、1大会の出場を3日間に制限。「筋力は大学から追い付いても、ボールを扱う指先の繊細な感覚や、体の柔軟性は高校時代にしか伸びない」。筋力強化でけがをしない体作りに取り組むのではなく、日本代表のエースとなる将来を見据えて、ボールを扱う“感覚”に磨きをかけることを優先した。石川もそれを受け入れ、アタッカーだけでなくセッターを経験するなど、今できることに最善を尽くした。

 同世代のチームメートは、小中高9年間ともにプレーした中根聡太さん(現星城高バレーボール部監督)をはじめ、山崎貴矢さん(元堺ブレイザーズ)、川口太一さん(元ウルフドッグス名古屋)、武智洸史(JTサンダーズ)など、のちにVリーグに進む逸材がそろった黄金世代。「エース頼みになってはいけない」と“石川封印”のプレー制限が、ほかの選手に火をつけるきっかけにもなった。さらに自主性を重視する竹内さんの指導方針が、例年以上にチームにフィット。選手間で意見を交換することが増え、練習メニューの意図も理解するようになった。

 その中心にいたのが主将の石川だった。物事を決める際には「みんなはどう思う?」と意見を求めることもあったが、真面目に練習に取り組む姿勢や、試合での圧倒的な得点力でチームを背中で引っ張るタイプで「常に高い意識で『ちゃんと練習やろう』みたいな言葉は一切必要なかった。プレーの中身を追求できていた」と中根さん。エースが核となり、チームは成長。公式戦99連勝、そして2年連続でインターハイ、国体、春の高校バレーを総なめする史上初の高校6冠を達成した。

 大偉業へ導く活躍の裏で、石川の日常生活は基本的に“スイッチオフ”状態だった。教室の隅に一人でいることが多く、会話も必要最低限。竹内さんは「日常を6割で生活している感じ。僕に触れないで、みたいな。教室で気配を消してましたね」と、コート上とのギャップを笑いながら明かす。

 順調な成長曲線を描き、列島にその名を広めた高校時代。ただ、石川の器は日本でとどまるものではなかった。「体に積んでいたのはF1じゃなくて、スペースシャトルのエンジンでした」(竹内さん)。中大進学、初のA代表入り、そしてイタリア1部挑戦へ-。「ISHIKAWA」は世界に羽ばたいていった。

 ◆石川祐希(いしかわ・ゆうき)1995年12月11日、愛知県出身。小学4年生でバレーボールを始め、矢作南小、矢作中を経て星城高に進み、史上初となる2年連続3冠を達成した。14年に中大に進学。同年9月に日本代表デビューし、アジア大会銀メダル獲得に貢献。大学在学中の14-15年シーズンにセリエA・モデナと契約した。16-17年から2季連続でラティーナでプレー。18年3月の大学卒業後、プロに転向。18-19年はシエナ、19│20年はパドバ、20-21年からはミラノに所属。昨季はエースとして自身初の4強入り。192センチ。

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