羽生結弦 ソチ五輪V後に語った被災地への葛藤「自分に今までいったい何ができたのか」
フィギュアスケート男子で14年ソチ五輪、18年平昌五輪2連覇王者の羽生結弦(27)=ANA=がプロスケーターに転向し、競技会の第一線から退くことを表明した。新たな道を切り開いていく“氷の英雄”は、勝負の銀盤に数々の名演とドラマを残してきた。羽生が残してきた言葉とともに、その競技人生を振り返る。第1回はソチ五輪での被災地への葛藤を取り上げる。
1つの夢が叶(かな)った日。2014年2月14日のソチ。勝者のみが座ることが許される中央の席で、19歳の青年の表情は硬かった。何度も逡巡(しゅんじゅん)し、言葉を紡ぐ。
「金メダリストになった今だから、自分に今までいったい何ができたのか考えてしまう。無力さを感じてしまう」-。
2011年3月11日、14時46分。当時16歳の羽生は練習拠点だったアイスリンク仙台で被災した。自宅ものちに全壊と判断された。拠点を失い、全国のアイスショーで滑りを磨きながら、世界のトップスケーターへと駆け上がっていった。被災を乗り越えて。ただ、そんな美談でくくられるほど、自らの心も、故郷への思いも、整理はできていない。
「僕自身が津波のことだとか、地震のことだとか、そういうことを言っていいのかどうか、まだわかんないですし、実際こうやってオリンピックのゴールドメダリストになれたかもしれないですけど、それでもやっぱり僕1人が頑張ったって、あの復興に直接手助けになるわけではないので、すごい、すごい無力感というか、そういうものをすごく感じますし、なんか何もできてないんだなという気持ちもちょっとします。だからこそ自分はこうやって一生懸命やって、オリンピックで金メダルを獲るっていう素晴らしいことができたのかもしれないですけど、ここからまたオリンピックっていうオリンピックの金メダリストっていうそういう人になれたからこそ、そこからスタートなんじゃないかなと。そこから震災や復興のためにできることがあるんじゃないかなと。それに対してのスタートなんじゃないかなと、僕は今思っています」。精一杯の言葉だった。
スタートと位置付けたあの日から、8年が過ぎた。その後の活躍はあえて記述するまでもなく、紡いだ英雄譚(たん)は被災地を勇気づけてきた。羽生はアイスリンクには毎年のように寄付をし、総額は昨年時点で3000万円を超えた。18年平昌五輪後に仙台で行ったパレードには、約10万人が沿道から見守った。プロ転向の報が流れると、地元からはねぎらいと新たな門出へのエールが相次いだ。羽生は故郷を愛し、故郷もまた羽生を愛した。
3連覇への挑戦を終え、そして最後の競技会となった北京五輪後、羽生はこう話していた。「何かをきっかけにしてみんなが一つになるということが、どれだけ素晴らしいことかということを、あの東日本大震災から学んだ気がしていて。僕の演技で皆さんの心が少しでも一つのきっかけになっていたら、僕は幸せ者だなと思います」。自らを「無力」と打ちひしがれた青年が放ち続けてきた光は、今も、そして未来も、東北の地を照らしていく。(デイリースポーツ・フィギュアスケート担当・大上謙吾)