羽生結弦 プロ転向へ 「獲るべきものは獲れた」さらなる理想を追求へ

 フィギュアスケート男子で、2014年ソチ、18年平昌両五輪王者の羽生結弦(27)=ANA=が19日、都内で会見し、「これから競技会に出るつもりはないです」「理想とするフィギュアスケートは、競技会じゃなくてもできる」と競技の第一線から退く意向を表明した。また「プロのアスリートとしてスケートを続けていくことを決意しました」と言い、今後はプロスケーターとして活動していく。

 引退会見といえば、競技生活を戦い抜き、やっと解放されると胸をなで下ろす選手が多い。しかし、羽生は「新たなスタートを切ったと今は思っています」と言ってのける。輝きに満ちた、まっすぐな瞳で。普通のそれとは全く異なる「決意に、希望に満ちあふれた」約1時間の会見。まさに羽生結弦にしかなし得ない「決意表明」の場だった。

 迷いのない、スッキリとした表情で羽生は言葉を紡いだ。笑顔も多かった。会見冒頭、多くの人への感謝を口にし「プロのアスリートとして、スケートを続けていくことを決意しました」と表明。「これから競技会に出るつもりはないです」とし「これまでやってきた中で、結果に対して獲るべきものは獲れたと思っている。そこへの評価をもう求めなくなってしまったのかなって」と率直な思いを吐露した。

 もともと、平昌五輪で2連覇を達成したタイミングでのプロ転向が頭にあった。しかし4回転半ジャンプ(クワッドアクセル)の初成功を目指したことで「結果、北京五輪まで続いた」という。

 ただ、この4年間は困難の連続だった。度重なるケガ、思うようにいかない前人未到4回転半への挑戦。不運も重なり、思い描く演技ができないことの方が多かっただろう。そのたびに「頑張れてないのかなとか、いろんなことを考えた」とも言う。心の底には常に葛藤があった。

 決断は、4位だった北京五輪後。競技会は順位や点数という名の評価に縛られる。表現できることにも限界がある。「よりうまく、より強くなりたい」との思いが、試合という枠を飛び出し、純粋にスケートを磨くという決断を後押しした。

 長い競技生活。誰より羽生が「羽生結弦」という存在と向き合い、苦しみ、救われてもきたスケート人生だった。16歳で東日本大震災を経験。被災地の思いを背負いながら滑ることはもちろん、ケガや事故など苦境を乗り越えながら、常に挑戦を続けるその姿は、多くの人の心を動かした。その滑りが、指先の動き一つでさえもが、世界中を魅了した。

 だからこそ「僕にとって羽生結弦という存在は常に重荷です」。どんな時も「もっといい自分でいたいと思ってしまう」という。一方で、結果的に最後の競技会となった北京五輪では「努力は報われない」という姿もさらけ出した。それでも変わらぬ声援が「うれしい」とも感じた。

 「いつもいつも、羽生結弦って重たいと思いながら過ごしているけれど、それでも羽生結弦という存在に恥じないように生きてきたつもり。これからも羽生結弦として生きていきたい」

 新たな一歩を踏み出した羽生だが、真摯(しんし)にスケートと向き合う姿勢はこの先も変わらない。「4回転半ジャンプもより一層取り組んで、皆さんの前で成功させることを強く考えながら、これからも頑張っていきます」とも言う。ステージこそ変わるが、これからも羽生の挑戦は続く。晴れやかに。涙はなかった。

 ◆羽生結弦(はにゅう・ゆづる)1994年12月7日、仙台市出身。4歳のとき、姉の影響でスケートを始めた。14年ソチ、18年平昌両五輪金メダル、22年北京五輪4位。14、17年に世界選手権王者に輝き、13~16年にGPファイナルを4連覇した。20年四大陸選手権で初優勝し、男子初のジュニア、シニアの主要国際大会全制覇。全日本選手権は6度優勝した。12年にカナダのトロントに練習拠点を移し、ブライアン・オーサー・コーチらに師事した。16年に世界初の4回転ループに成功。20年に早大を卒業。23歳だった18年に個人最年少で国民栄誉賞を受けた。172センチ。

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