【私の五輪志・谷亮子さん(2)】重圧より応援が力に 話すことは決心の場になる

 2020年東京五輪へ向けての新企画「東京へ駆ける」。今回は各界のキーマンに聞く「私の五輪志」をお届けする。柔道女子48キロ級五輪2大会金メダリストで「ヤワラちゃん」として国民的ヒロインとなった谷亮子さん(43)が、注目されることへの意義を語った。また、自身も誘致に尽力した東京五輪・パラリンピックが日本の子どもたちに与える影響にも期待した。今回は(2)。

  ◇  ◇

 -トップ選手となってからも、常に柔道が楽しそうだった。

 「ケガなど大変な時もありました。ただ現役中は自分の中で笑顔をモットーにしていました。どんなつらいことも笑顔で乗り越えられる選手になりたいと。スポーツを通じて心から喜びがあふれてくるような、笑顔を大事にしていました。競技の時は無我夢中で怖い顔になるんですが、試合が終わると元々こんな垂れ目なので」

 -常に注目されること、重圧との戦いは。

 「私はマスコミのみなさんに育てていただいたと感じていて、引退してからも感謝の気持ちが強くありました。最初は1990年の福岡国際、中学3年の15歳で優勝して『ヤワラちゃん』というニックネームで大きく取りあげていただいた時。その頃から記者さんとの『次の目標は?』『五輪です』『世界選手権です』というやりとりが、自分の目標を確認する場になっていた。記者さんが目標を引き出して、いい形で報道してくださったことが大きな原動力でした。みなさんと一緒に頑張っている感じ。五輪や世界選手権で優勝すると、涙を流してくださる記者さんがいて。それもある時期だけじゃなく15歳からずっとでしたから」

 -国民からの期待も常に大きかった。

 「重圧より応援が力になるタイプでした。全国どこに行っても励ましてくれる方がいて、私を前に進ませてくれた。自分一人ではここまで来ることができなかった。大変な時もあったけど、それを超える応援があったので、ありがたい気持ちでいっぱいです」

 -それでも有言実行は簡単ではない。

 「話すことは自分自身の決心の場になる。『優勝する』と言ったら、それだけの努力をして大会に臨まないといけないと、15歳の時にわかっていました。金メダルを狙うと言うのは簡単。ただ、自分がどこまで決心できているのかが(結果の)分かれ目になる。アスリートには重い発言です」

 ◆谷 亮子(たに・りょうこ)1975年9月6日、福岡市出身。旧姓・田村。小学校2年生の時に兄の影響で柔道を始め、福岡・城香中3年時に大会最年少の15歳で福岡国際女子選手権を制した。福岡工大付高(現福岡工大城東高)から帝京大、日体大大学院へ進学。10年までトヨタ自動車に所属。五輪は女子48キロ級で、92年バルセロナ銀、96年アトランタ銀、2000年シドニー金、04年アテネ金、08年北京銅。世界選手権は6連覇を含めて7度制した。03年にプロ野球選手の谷佳知氏と結婚し、現在2男の母。元参院議員。身長146センチ。

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