勇者の魂は永遠に― 連載コラムで振り返る知将・上田利治の素顔

阪急黄金時代を築いた名将・上田利治さんが7月1日に亡くなった。デイリー本紙で16年5~8月に掲載され「人間再発掘シリーズ~気骨で生きる 知将・上田利治~」の内容を中心に、稀代の名将の素顔を振り返る。

公開日:2017.7.5

広島の捕手時代。わずか3年の現役生活だった

 カープのオーナー・松田恒次は鶴岡以上に上田に惚れている。
 「君は、選手として大きい期待をかけてカープに来てもらったのではなくてね」
 実に失礼な切り出しである。が、その顔は優しげである。
 「将来、うちの幹部候補生として活躍してもらおうと思って来てもらった。これからの時代は人を育てるということが大事になってくる」
 「いい人材を育成する必要性は、企業も野球も同じだと思う。ひとつ指導者としていい選手を育てて欲しい」
 この時、上田は24歳。2軍のコーチが初仕事である。【第12回・16年6月12日付】

1970年、村山兼任監督に請われ阪神コーチの話になるはずが…

 「俺を助けてくれんか。また、おれと一緒に野球をやってくれんか」
 村山実である。(中略)
  知った仲である。手にしびれた速球を投げてきた旧友である。ただ、何事にも意のままになるが如く生きてきた村山と「監督とコーチ」の関係でうまくいくのか。
 上田の思案が読める。
 阪神球団から本格的な交渉があるかと思ったら、ない。上田は首をかしげた。【第13回・16年6月21日付】

投手兼任で阪神を指揮した村山実監督=1970(昭和45)年10月11日、甲子園で巨人を完封した日の1枚

 上田は熟慮し、ついに翻意する。だが、今度は村山が煮え切らない。何より、すでにフロントが別人のコーチを決めている、という。もっと言えば、阪神は人を食ったような条件(契約金&年俸)を上田に伝えた。
 話が逆ではないか。「カネで断ってきたんやないんですよ」と上田。結局、阪神との話は狐につままれたような形で終わる。破談したのだ。【第14回・16年6月22日付】

幻に終わった「鶴岡近鉄」入閣話 山内一弘の推薦で西本阪急へ

「(近鉄の)話は無くなった。近鉄には行かない」という電話がかかってきた。えっ?えっ?上田に言葉がない。真相は闇の中。表に出てきた白紙の理由は「(鶴岡の)健康問題」と、とってくっつけたような稚拙な説明だった。【第15回・16年6月23日付】

 西本が困っていると、山内が言った。
 「(広島に)いいコーチがいます。若くて、情熱があって、理論もあって、どんな選手とも真正面から向き合って。いい、いい、彼はいい。あのコーチを取るべきですよ」【第16回・16年6月24日付】
※西本は当時の阪急監督・西本幸雄。山内はシュート打ちの名人としてならした山内一弘。西本に打撃コーチを打診された山内が、一足先に巨人に決まっていたため上田を推薦した。

左が阪急監督時代の西本幸雄。右は阪神コーチ時代の山内一弘

西本幸雄に説得され36歳で阪急監督就任 当の西本は近鉄監督に

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