勇者の魂は永遠に― 連載コラムで振り返る知将・上田利治の素顔

阪急黄金時代を築いた名将・上田利治さんが7月1日に亡くなった。デイリー本紙で16年5~8月に掲載され「人間再発掘シリーズ~気骨で生きる 知将・上田利治~」の内容を中心に、稀代の名将の素顔を振り返る。

公開日:2017.7.5

 本紙評論家として長年健筆をふるっていただいた上田利治さんのご逝去を悼み謹んでご冥福をお祈りいたします。
当まとめでは、2016年5月から40回にわたって連載したコラム「気骨に生きる ~知将・上田利治~」(元阪急版記者・平井隆司著)の内容を中心に、上田さんの功績を振り返ります。(以下、文末の【 】内は掲載回と日付)

78年日本シリーズで1時間19分の猛抗議!この時審判の足を踏んづけていた!

「あの時、あんた、ぼくの足を見てた?」「足ですか?いえ、見てませんね」「そやろね。そら、惜しかったね」「えっ?」「(ジャッジした富沢宏哉線審の)足を思いっ切り踏んづけてたんやで」
「えっ?」「手を出したら退場やね。でも(無意識に)足を踏むくらいなら(退場に)ならんわね」
 日本シリーズ史に残る「上田監督の1時間19分抗議」(78年)の外伝である。
 「完璧なファウルやったもんね。それがホームラン。腹が立って、立って…なあ。最初から踏んづけようと思ったわけやない。でも顔をくっつけている間に線審の足の上にぼくの足があったんよ(笑い)」【第1回・16年5月31日付】

78年10月22日、日本シリーズ第7戦で多大杉勝男の大飛球をめぐり左翼ポール下で激しく抗議する阪急・上田監督(右下)

1978年の日本シリーズ - デイリースポーツonline

監督の娘ゆえの重荷「1分でいいから抗議の記録破って」

 訪問した上田宅での雑談で長女は「あと1分でいいから抗議の記録を破ってほしい」とつぶやいた。
 こちらの誘いに乗ってくれたもので、深刻なつぶやきではなかったが、未だに父親の、あの1時間19分の抗議を娘は(やはり)重荷として背負っているのは紛れもない。
 後日、次女からもらった手紙にはこんなくだりがある。
 「(略)父の野球ゆえに小学校で殴られたり、カッターで服を切られたりしたこともあった(略)」【第2回・16年6月1日付】

徳島海南高時代は地元のヒーロー 有料の練習試合も超満員に

「『3番、キャッチャー、上田』とアナウンスされると、すごい拍手と歓声で球場は湧いたんです」(中略)
  有料の練習試合。それだけの価値がある。そういうことだった。その舞台のど真ん中に立っていたのが、上田利治捕手なのだ。
 「走攻守の3拍子がそろった上田先輩は、幼い頃のぼくらの英雄でした。(後略)」【第4回・16年6月3日付】
※高橋とは、漫画家ぴーまん。上田さんの一回り年下で海南高の後輩になる。

推薦いらずの学力で関西大合格 のちのミスタータイガース・村山実とバッテリー

新入団3選手の対談にて。右から広島・上田利治(関大)、大洋・金光秀憲(関学)、阪神・村山実(関大)=1958(昭和33)年

 関大野球部でも、人生を大きく動かす出会いがあった。相手は「村山実です」と名乗り、こちらも挨拶した。いや、実はこの日が初対面ではない。高3の時、関大のセレクションを受けた2人は村山が投げ、上田が捕っている。
 「(村山の球は)迫力があった。手がしびれたもんね」
 上田の懐かしい回顧である。【第9回・16年6月14日付】

「将来の指導者として」広島入団 3年で引退し24歳でコーチに

 その頃、西野襄は東洋工業社長の松田恒次と上田獲りについて話し合っている。松田はカープのオーナーである。
 (中略) 西野が上田に訴えた。
 「君の考えは社会人野球に傾いているって?ならさ、うちに入団して3年くらい野球してじゃね、その後に東洋工業に帰る。これなら文句ないじゃろが」【第10回・16年6月15日付】
※西野は当時の広島スカウト(育成部長)

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