田中尊さんはヘッドコーチの鑑 何かと気の付く人、僕も助けられた カープOB安仁屋宗八氏が振り返る昭和プロ野球
広島、阪神で通算119勝をマークし、現在はデイリースポーツ評論家を務める安仁屋宗八氏が、現役時代の記憶を振り返ります。今では想像もつかない昭和ならではの破天荒なエピソードを語り尽くします。
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捕手出身の田中尊さんには現役時代からコーチ時代まで随分お世話になった。正捕手の時代が長く、白石勝巳さんや長谷川良平さんら4人の監督のもとで、チームの要として活躍されていた。
ただね、投球時にミットの網の部分で捕球する“クセ”があったから、池田(英俊)さんや大石(清)さんら、そのころの主力級の人には避けられていたね。別の捕手を指名していた。
小気味よい“パン”という音ではなく、抜けたような鈍い音を立てるから“気分が乗らない”って。それも一理あるけどね。
田中さんはどうも意識して、そういう捕り方をしているみたいだった。手が小さいから、手の痛みを感じやすいみたいなことを言ってたね。
だからといってキャッチングが悪いわけではなく、また盗塁はよくアウトにしてくれた。強肩というより送球動作が速かったんだね。
一番の良さは何と言ってもリードでしょう。配球の巧みさは全幅の信頼を置くことができましたよ。若い投手の球を嫌がらずにずっと受けてくれていたから、投手の特長をよくつかんでいたんだと思うね。その投手の“いいボール”をうまく使って打者を料理してくれていた。
体つきはやや細身だったけど、丈夫だったね。ホームベース上のクロスプレーもあったが、逃げ方がうまかったんでしょう。故障というのは聞いたことがなかった。
僕が投手コーチになったとき、田中さんは1軍の総合コーチだった。その田中さんがいなかったら、僕はコーチを途中で辞めていたんじゃないかと思うくらい、助けてもらった。
キャンプの細かいメニュー作りが大変だったんですよ。アップからランニング、ピッチング、フォーメーションプレーとか。グループ分けし、10分、20分で切り上げて移動し、次のメニューへ移る。これを作る作業が苦手で。
昔の日南キャンプは1、2軍が一緒に天福球場で練習していたこともあって、とにかく人数が多かった。僕と田中さんは相部屋だったけど、同じように朝早く起きて手伝ってくれたんで、ホント救われましたよ。
何かと気の付く人で古葉(竹識)さんは相当頼りにしていたね。ミーティングでも自分で採ったデータを基に指示を出していた。器用で頭もいいし、だいたいのことは田中さんが仕切っている感じだったね。
当時、投手たちからの注文は、すべて投手コーチの僕から田中さんを通して監督へ伝えていた。相談したうえで“いいか悪いか”を判断してもらう。これは止めといた方がいいというものもあったね。
阿南(準郎)さんの監督時代はヘッドコーチという肩書きになったが、古葉さんと同様に信頼され、ナンバー2の役割を見事に果たしていた。
残念ながら若くして亡くなられたが、ヘッドの鑑とは田中さんのような人のことを言うんだろうと、改めて思ったね。(デイリースポーツ評論家)
◇田中尊(たなか・たかし)1936年4月11日生まれ。香川県高松市出身。現役時代は右投げ、右打ちの捕手。173センチ、65キロ。高松商を経て55年に南海に入団。57年に広島に移籍し、翌年にレギュラーに定着。66、68年には球宴にも出場した。72年に引退し、1軍バッテリーコーチやヘッドコーチなどを歴任。古葉監督、阿南監督の下で5度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。コーチ退任後の89年にはフロント入り。2005年5月に肺炎のため死去。通算成績は1429試合出場、打率・196、619安打、8本塁打、173打点。
◇安仁屋宗八(あにや・そうはち)1944年8月17日生まれ。沖縄県出身。沖縄高(現沖縄尚学)のエースで62年夏に甲子園出場。琉球煙草を経て64年広島に入団。75年阪神に移籍し、同年に最優秀防御率とカムバック賞を受賞。80年に広島へ復帰し、81年引退。実働18年、通算655試合登板、119勝124敗22セーブ。引退後は広島の投手コーチ、2軍監督などを歴任。2013年12月から広島カープOB会長。22年から名誉会長。





