広島・栗林が激白 夢はどのように叶ったか 日本を代表するストッパーに成長した右腕の原点

 広島・栗林良吏投手(26)がデイリースポーツの読者に本音をさらけ出す一人語り『謙虚』がスタート。プロ3年目にしてカープの守護神だけでなく、日本を代表するストッパーに成長した右腕。第1回のテーマは「夢を叶えるまで」。無心で白球を追った少年時代からさまざまな出会いに導かれ、プロ野球選手になるまでを振り返る。

  ◇  ◇

 デイリースポーツ読者のみなさん、栗林良吏です。今月から定期的にコラムを掲載させていただきます。

 今回は僕がカープに入るまでを振り返ってみたいと思います。

 野球を始めたのは小学2年の終わり。一つ上の兄の影響で始めました。最初は外野手。ボールを拾うのが好きで、公園で父や兄が打った球を捕りに行くのが楽しかったです。

 チームの活動は土、日だけ。平日は放課後にみんなで集まって、野球をして遊んでました。兄に負けたくなくて、学校へ行く前に素振りをしてました。

 この頃は学校のクラブ活動でサッカー、あと習字も習っていました。近くに教室があって、行きたい時間に行って1時間、正座で過ごす。字を書くだけじゃなくて箸の持ち方や礼儀も教わりました。習字は中学3年まで続けました。今でも書きたくなったら、筆ペンで書いたりします。

 中学は軟式のクラブチームに入りました。ここも土、日だけだったので、平日は学校の野球部で練習をさせてもらっていました。ポジションはショート。投手は黎明高2年の秋から。投手がいなくて、ちょっと投げて代わるみたいな感じです。本格的には自分たちの代になってから。投手がいないからやっていただけで、まったくやりたいとは思っていませんでした(笑)。野手の方がすごく楽しかった。その頃も守りが好きでした。今でも守備練習は好きですね。

 名城大へは投手で呼ばれました。ほかの大学から野手で、という話もありました。野手をやりたかったので、そっちに行きたいと親に言ったんですけど「せっかくやるならレベルの高いところ、野球が無理でもある程度、就職できるところの方がいいんじゃないか」と言われて名城大を選びました。

 ここでは2年の冬に元中日の山内壮馬さんがコーチになり、投手としての立ち居振る舞いやマウンドさばきなどを、一から教えてもらいました。4年時に教わったフォークは今も最大の武器です。

 そして、トヨタ自動車に入って元DeNAの細山田武史さんに得意球だったスライダーを「使えない」と言われて変わりました。スライダーをなくしてカーブ、フォーク、カットボールしかないとなって、成長することができました。今の自分があるのはお二人との出会いがあったからだと思っています。

 振り返ってみると指導者に恵まれたと思いますし、仲間に恵まれました。あとは高望みし過ぎなかったのが良かったと思います。節目節目で自分のレベルに合ったところに入れた。ライバルがいて、お互い競い合ってレベルが上がった。強豪チームに入っていたらうまくいったかどうか分かりません。それが結果的に良かったのだと思います。

 小学生のときはプロ野球選手になりたいと思っていました。でも、中学、高校の頃は無理だと思うようになりました。代わりに野球に関する仕事、スポーツ用品店に勤めてみたいとか、なんとか野球を続けたくて社会人野球に進むことを考えるようになりました。でも、周りには“消防士になりたい”とか言ってました(笑)。夢を語ることはなかったですね。恥ずかしくて言えなかった。でも、ずっと野球は大好きでした。楽しかった。やめたいと思ったことは一度もなかったです。

 子どもたちに夢を叶(かな)えるためにアドバイスできることがあるとすれば、一番は楽しむことだと思います。自分が楽しいと思えることに全力で楽しんでほしい。それが、友達や仲間と一緒に味わえたならきっと、最高の友達や仲間になるはずです。(広島東洋カープ投手)

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