さらば鉄人・衣笠氏 2215試合連続出場、国民栄誉賞

 2215試合連続出場の世界記録(当時)を樹立し、「鉄人」と呼ばれた元プロ野球広島の衣笠祥雄さんが23日、上行結腸がんのため、都内で死去した。24日、関係者が明らかにした。71歳。衣笠氏は1965年に平安(現龍谷大平安)から入団し、75年のリーグ初優勝に貢献。87年に国民栄誉賞を受賞し、96年には野球殿堂入り。背番号「3」は広島の永久欠番。引退後は野球解説者として活躍。BS-TBSで放送された19日のDeNA対巨人戦が、最後の解説になった。24日に都内で通夜が執り行われ、葬儀・告別式は25日に都内で家族葬にて執り行われる。

 突然の訃報だった。75年のリーグ初優勝に貢献し、カープ黄金時代を築いた「鉄人」が上行結腸がんで亡くなった。衣笠氏は数年前に一度、体調を崩したが復調。今月も解説者としてテレビ中継に携わり、普段と変わらぬ様子だったという。26日に横浜スタジアムで行われるDeNA対広島戦もマイクの前に座る予定だった。

 関係者によると容体が急変したようで、ここ最近は腹部に違和感があったという。19日にDeNA対巨人戦のテレビ中継の解説を担当した際には、かすれ声で聞き取れない場面が多く、インターネット上では体調を心配する声が上がっていた。

 野球史に偉大な記録と足跡を残した。プロ6年目の70年10月から、死球を受けて骨折しても、グラウンドに立ち続けた。87年6月13日の中日戦(広島市民)で、ルー・ゲーリッグが持っていた連続試合出場の世界記録を更新する2131試合出場を達成。同年に引退するまで2215試合連続出場した。

 「赤ヘル軍団」の象徴だった。低迷していた当時の広島を山本浩二氏と引っ張った。75年のオールスター第1戦(甲子園)では山本氏と2打席連続アベック弾という離れ業を演じた。チームはこの年、初のリーグ制覇を飾り、「赤ヘル旋風」は社会現象になった。

 フルスイングが代名詞だった。転機はプロ3年目の67年。後に広島や西武などで監督を務めた根本陸夫氏が1軍コーチに就任した。潜在能力の高さを見いだされ、公私で指導を受けた。当時、衣笠氏は2軍暮らしが続いて私生活が乱れており、宿舎で毎日のように説教や技術指導を受けた。ファンを魅了した打撃の原点は、そこにあった。

 87年にプロ野球では王貞治氏に次いで2人目となる国民栄誉賞を受賞し、96年には当時史上2人目となった40代での野球殿堂入りを果たした。引退後は解説者として球界に携わり、温かみあふれる話し口調は視聴者の心を和ませた。

 球界では今年1月に中日、阪神、楽天で監督を務めた星野仙一氏が亡くなっており、相次ぐレジェンドの旅立ちを悲しむ声が広がった。

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