甲子園が生んだ怪物たち~池永正明

 インタビューに答える池永正明氏=福岡市
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 今夏で100年を迎える甲子園の歴史は、数多くの名選手が彩ってきた。その中でも並外れた実力で「怪物」と呼ばれた選手たちがいる。1963年に春優勝、夏準優勝し、秋は国体を制した下関商(山口)の2年生エース、池永正明(68)もその一人だ。「甲子園が生んだ怪物たち」の第1回では、度胸満点の投球で「おとこ気のマウンド」と称された右腕を紹介する。

 1998年。「平成の怪物」と呼ばれた松坂大輔(現ソフトバンク)を擁する横浜が、甲子園の春夏連覇と国体優勝で「高校3冠」を初めて達成した。その35年前の1963年。この快挙を2年生で惜しくも逃した「昭和の怪物」がいた。

 下関商の池永正明。山口県豊北町(現下関市)出身で、漁師で宮相撲の横綱を張ったこともある父から筋肉質でバネのある体を受け継いだ。

 野球を本格的に始めた神玉中では軟式にもかかわらず、剛速球を受け損ねた捕手が歯を折ったという逸話がある。「野球以外にも陸上や相撲をやった」。陸上の三種競技でも山口県記録を出したという才能の塊だった。

 「下関まで山陰線で1時間半かかる田舎の子だし、下商がどれぐらいの名門かもよく知らんやった」。それでも、巨人などで活躍した藤本英雄らを生んだ伝統校に進むと、すぐに頭角を現した。1年夏に公式戦登板。新チームでエースとなり快進撃が始まった。

 高校時代の球種は直球とドロップ(縦のカーブ)のみ。「直球は140キロぐらい。ドロップは垂直にがくっと落ちた」。当時はスピードガンがない時代。球速は池永の「自己申告」だが、捕手の手が腫れ上がる球威と抜群の制球力があった。

 62年秋の中国大会で準優勝。翌63年の選抜出場をほぼ確実にした。紹介した連続写真は高卒1年目で20勝した西鉄時代の65年ごろの投球フォームだが、重心の低さと投球後の守備への備えが印象的。高校時代からの完成度の高さがうかがえる。

 63年の選抜。初戦は優勝候補の明星だった。池永が「甲子園で一番うれしかった」と振り返る試合だ。当時は情報も少ない時代。「最初にマウンドに上がったときは震えた。相手は強い関西の優勝候補。不安ばかりだった」と明かす。

 強打の明星を散発3安打完封。これが池永の甲子園デビューだった。同級生で三塁手の岡田希代達は「池永が明星を抑えるうちに『俺たちの方が強い』と思えた。(当時172センチ、75キロの)池永がマウンドで本当に大きく見えた」と話す。

 2回戦は海南を延長16回の末、池永自身のサヨナラ打で下した。さらに御所工、市神港と関西勢を接戦で撃破。決勝は、準決勝で早実を大逆転で破った北海との対戦。「(準々決勝から3連投で)余裕はないし、無我夢中だった。外の直球で追い込んで、ドロップで勝負。試合前には3対7で不利と言われとったけどね」。決勝のスコアは10-0。全5試合、計52回を一人で投げ抜いた。

 決勝後のインタビューで、観客席で涙ぐむ父に「父さん、聞こえるか。元気を出せ」と呼び掛けた芯の強さも有名だ。もっとも、池永は「わんわん泣きたかったのに、親が先やったから。何か言うしかないやないね」といたずらっぽく笑う。

 春の王者として臨んだ63年夏。池永の右腕はすごみを増した。山口大会では準々決勝の柳井戦で完全試合を達成するなど、43イニング連続無失点で甲子園に乗り込んだ。「自分でもすごいことをしとると思った。絶好調だった」と振り返る。

 初戦は富山商を15奪三振で完封したが、続く松商学園戦で不測の事態が起きた。5点リードの五回。「足も自信があった」という一走の池永は捕逸で三進。ヘッドスライディングで三塁を陥れた際に、体をひねった衝撃と三塁手のタッチで左肩を激しく痛めた。

 「左肩から『グジュッ』と音がした。1球投げたら、もう1回音がした」。左腕が痛みで動かないため、右腕のみの投球動作で松商学園を完封。試合後は「痛くて動かないだけで大したことはない」と強気に話したが、左肩は亜脱臼していた。

 翌日の首里戦は登板を回避。続く桐生戦は中3日の池永が左腕を固定して完投したが、七回の1失点で予選からの連続無失点は67イニングでストップ。準決勝は今治西にサヨナラ勝ちし春夏連覇を懸けた決勝へ進んだ。

 決勝は春に完封した明星との再戦。初回に先頭の初球バント安打と内野守備の乱れで2点を失った。バントは左腕が伸びない池永を狙ったものだった。「ドロップを多投した記憶がある。体はきつかったね」。二回以降は無失点。六回に自身の三塁打から1点を返したが、ここまでだった。

 「(2回戦で左肩を痛めた後の)彼のピッチングフォームは、左腕をほとんど体から離さずに、腰の回転と、右腕だけで投げるという変則投法であった」

 岡田は「下商野球部百年史」にこのように記した。痛み止めを打ちながら投げた池永も「投手はプレートに足が掛かると『いきり立つ』もん」と話す。池永が好投手の条件に挙げる「負けん気と精神力の強さ」を誰よりも備えていたのは、自分自身だった。

 左肩が癒えた山口国体では新潟商、横浜、磐城を連破して優勝。期待された3年時は連投による右手指のけんしょう炎の影響もあり、選抜は初戦敗退。夏は山口大会初戦で早鞆を「押しまくった試合」の末に0-1で惜敗。その早鞆は甲子園に初出場して準優勝した。

 西鉄では入団から5年で99勝。「黒い霧事件」に巻き込まれ、球界を一度は去ったが、2005年に復権した。

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