大阪偕星学園 監督と雑草集団の強い絆

 選手と監督の強固な信頼関係は、家族以上かもしれない。第97回全国高等学校野球選手権・大阪大会を制し、春夏通じて初めて甲子園の切符をつかんだ大阪偕星学園。熱血指導で“雑草集団”をたたき上げた山本晳監督。歓喜の輪を目にするとその場で泣き崩れた。

 2011年、監督に就任した当初はとても甲子園を目指せるチームではなかった。「『甲子園に行く』なんて言っても、誰も信じてくれなかった。言ってるのは自分だけ」。私学ながら野球部は荒れ、ポテンシャルの高い大阪桐蔭や履正社といった強豪校に太刀打ちできる存在ではなかった。

 それでも勝てる喜びを、努力の大切さを生徒に教えるため、日付が変わるまで練習に付き合った。「子供たちに肉をね。お腹いっぱい食べさせてあげたかったから」と早朝4時に起床し、約10キロもの鳥の唐揚げを作り、生徒に弁当として持たせた。

 睡眠時間は2~3時間。「本当につらかった。食堂に自分で布団を持ってきて寝ていた」と山本監督は苦笑いで明かす。寮のルール、マナーを破れば監督の部屋で寝ることを義務づけた。「受け入れる生徒は自分の子供だと思って」と多いときは4畳半の部屋に7人で寝たこともあった。

 家族は岡山に残したまま。帰ることも年に1、2度しかない。「給料は全部、家族のところへ入れている。お小遣いもない変わりに、野球だけやらせてくれと」。なぜ、そこまでして高校野球の指導者、教育者として生きようとするのか-。山本監督は「子供が好きだから」と言いきる。

 「学校の先生がサラリーマン化しているところもあるけど、僕にとって教師は聖職。子供たちに滅私奉公しないといけない。自分みたいな人間が教師をやらせてもらっている。自分の体は子供たちのために」

 その“熱意”は徐々に浸透していく。現在のメンバーを見ると「どこにも行き場所がない子たちをウチが預かって」と語るように、ドラフト候補の姫野は強豪校を1年夏に辞めた際、大阪偕星学園に編入した。主将の田端は中学時代に「どこも行くところがなかった」という中で山本監督が声をかけた。エースの光田は進路に悩み、中3で一時は野球を辞めた。それでも山本監督が声をかけ続け、高校で甲子園への道を目指した。

 だからこそ選手たちは甲子園を決めた直後、「監督には感謝しても感謝しきれない」と声をそろえた。主将の田端は「監督が泣いているところを見て、偕星に来て良かったんだなと思いました」と喜びをかみしめた。山本監督も「本当に夢みたいで信じられない。子供たちには感謝しかありません」と涙を流した。

 まるで野球漫画の「ROOKIES」を思わせるような教師と生徒の熱い信頼関係、そしてサクセスストーリー。「色んなことに適応できない子供はいる。でも僕にとってはみんな素直でいい子なんですよ」と山本監督は笑った。岡山・倉敷高時代には逮捕騒動(その後、不起訴)に巻き込まれ「本当に自分が野球をやっていたばかりに、家族や父親、みんなに迷惑をかけてしまった」と言う。

 大阪偕星学園に赴任しても最初は逆風が吹いた。それを山本監督は熱意の2文字で「つらいことばかりだった」時代を乗り越えていった。そして築いた生徒との信頼関係。大阪大会の決勝、その絆がピンチの連続をしのぎ、決死のスリーバントスクイズで勝ち越し点をもぎとった。最終回は1点差に迫られながらも「ハートの強さで」大体大浪商の猛攻を振り切った。

 一昔前よりも教育の現場が複雑化し、親を恐れ、子を恐れることが教師のサラリーマン化を進める要因の一つかもしれない。それでも「自分の子供のように。ちゃんと向き合えば子供は応えてくれるんです」と山本監督。大阪偕星学園ナインの表情を見ていると、その言葉には確かな説得力をはらんでいた。(デイリースポーツ・重松健三)

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