たかじんさん、本当は東京が好きだった

 やしきたかじんさん(享年64)ほど東西で温度差の激しい“テレビ・スター”は近年いなかった。東京と上方(かみがた)の文化に“東西の壁”があった時代ならともかく、大阪で人気者になって東京進出というパターンが定番になった時代にあっても、たかじんさんは“東京嫌い”を公言して最後まで大阪にとどまった。そのため、西ではカリスマとしてテレビ業界に君臨しても、東では“知る人ぞ知る”存在‐という現象が起きていた。

 だが、本当に“東京嫌い”だったのか。伝説の深夜番組「たかじんnoばぁ~」で、ビートたけし(67)をゲストに迎えた回が3本ある(1993年5月放送の前後編と96年7月放送の最終回)が、当時、筆者はすべてを見て、たかじんさんの普段とは違うテンションの高さと緊張感が伝わってきた。同時に「たけし=東京」を好敵手として強烈に意識していると実感した。だから、“東京嫌い”はキャラクター設定であり、(制約の多い東京のテレビ業界を嫌った部分は確かにあったにせよ)、本質的なところではどうなのかと思っていた。

 この“東西キング共演”を仲介したのが、たけしと漫才ブーム時代からの盟友であるB&Bの島田洋七(63)だ。昨夏、デイリースポーツで洋七の連載コラムを担当させていただいた縁もあり、たかじんさん死去から20日後の1月23日夜、現在拠点とする佐賀から上京して出演した都内のライブ終演後に、楽屋で当時の舞台裏を聞いた。

 洋七とたかじんさんとの出会いは、「‐ばぁ~」が始まった92年。「番組のプロデューサーから『(たかじんさんの)悩みを聞いて欲しい』と、電話がかかってきたんですわ。当時、携帯もなかったから、部屋の電話に。びっくりしたね。悩んだあげく、誰かに相談したいという時に、プロデューサーさんが『洋七に相談してみよか』いうことでね」。後日、本人と話した。「たかじんは同じ大阪におる芸人には悩みを言いたくなかったんやろな。『番組やめたいんですわ』が最初の相談やった。売れてきて、この先どうなるか不安やったんやろね。弾き語りから始めて苦労した時代も長かったから、この先が怖いという思いもあったんやろね」。洋七はそこで番組続行を強く進言し、その縁で「‐ばぁ~」の準レギュラーとなった。本音で語り合う間柄。洋七は今も「たかじん」と呼ぶ。

 「俺は“常連客”として番組には隔週で1年間出てた。たかじんは『東京がなんぼのもんや』とか大阪では言うてたけど、俺と飲んだ時には『東京で1本でも番組やりたい』言うてた。『東京のすごい人を番組に呼びたい』言うから、俺が友だちのたけしを呼んだんや。1週間前から、たかじんは『たけしさんを連れて行く店をロケハンしてる』って準備してたよ。収録中も、いつもとは全然違った。むちゃくちゃ緊張してた。言葉使いをどうしたらいいか分からんような雰囲気やったね。たかじんにとって、たけしは先輩やから敬語やけど、後輩(年下)の俺が『たけし』って呼び捨てやから、どういう関係やと思ったみたい(笑)」。収録後、たかじんさん、たけし、洋七の3人は大阪の北新地で飲んだ。

 洋七は明かす。「北新地で、たかじんは『東京で番組を持ちたい』と、たけしに相談してた。たけしも『そらそうだよね。(全国ネットの)東京でやりたいのは(芸能人なら)みんな当たり前のことだもんね」と応えてた。たかじんは東京嫌いやないですよ。やっぱり、あこがれはあったと思う。『東京のテレビに出たい』という思いは、たかじんとしゃべってて、よう分かりましたから」

 96年の「‐ばぁ~」収録後も3人の交流は続いた。今度は、たかじんさんが上京し、たけしが店をセッティングして“客人”をもてなしたという。「たかじんがコンサートを東京でやった時、『会おか?』と連絡が来る。たけしは時間がなくてすぐ行けないから、俺が先にコンサートが終わるころに会場行ってね。日曜で行きたい店が開いてない時も、『どこでもええんやん』言うてメシ食った。六本木やね。たけしは普通、接待なんてせんけど、『いいよ』って、たかじんのために店をセッティングしてた」

 たかじんさんと言えば“東京嫌い”とともに“酒”が代名詞だった。その背景を、洋七なりに分析する。「本質はまじめで繊細な人やから酒を飲んだ。彼はもともと歌手。芸人やったら、後輩が『師匠すごいですね』となるわけやけど、たかじんは一匹オオカミやから、『すごいね』とか周りもよう言わん。それを飲み屋で求めたんやろね。『飲みっぷりがすごいね』とか言われたくて。ほんまはそういうことやなくて、後輩から『すごいですね』と言われたかったんやろけど、世界がまた違うしね。歌手やから。寂しそうやった」

 大阪の酒で寂しさをまぎらし、東京の酒で刺激を受ける‐。洋七はその両面を見てきた。「大阪ではワ~ッと飲んで目立っても、東京では目立たんもん。酒場に行っても、芸能界だけでなく、財界の人とか、東京には日本一の人がいっぱいおるわけやん。2、3回は、たけし以外とで飲みに行ったけど、たかじん、『東京すごいなぁ』って言うてたもん。たまに東京の空気を吸うことで刺激を受けとったんやろね。大阪で弱音を吐かれへん分、つらかったと思うよ。大阪では『東京がなんやねん、おまえ!』とか言うてたけど、それもリップサービスやったと俺は思う。大阪の居心地はよかったと思うけどね」

 東京はお忍びで満喫する、つかの間の“解放区”だったのかもしれない。数年前、東京で流れていたテレビ番組で、大阪から東京進出した人気お笑い芸人のいるスタジオに、たかじんさんが“乱入”した場面を偶然見たことがある。ビビリながら「東京で何してはりますのん?」という芸人の問いに、「東京には刺激あるから。たまに来て刺激受けてる」という趣旨の発言をしていた。洋七の証言を聞きながら、その言葉を思い出した。

 “東京嫌い”を公言し、そのパブリック・イメージを最後まで裏切ることなく演じきった、たかじんさんだが、実は東京が“好き”だったのではないか。東京に対する、あこがれと反発心がコインの裏表となった複雑な感情を自身のモチベーションとしていたのかもしれない。くしくも、たかじんさん最大のヒット曲は「東京」、最期の時を迎えた地も「東京」だった。=一部敬称略

(デイリースポーツ・北村泰介)

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