シンガー・ソングライター 遠藤賢司

 日本のフォーク&ロックの礎を築いたレジェンド(伝説)の1人で、“エンケン”の愛称で知られるシンガー・ソングライターの遠藤賢司が、公開中の映画「中学生円山」で本格的な俳優デビューを果たした。同作の監督はNHK連続テレビ小説「あまちゃん」の人気脚本家・宮藤官九郎(42)。宮藤監督のラブコールを受け、まさに「じぇじぇじぇ!」と驚く66歳の新人俳優が誕生だ。来年でデビュー45周年。ジャンルを超えた“純音楽”を掲げ、走り続ける遠藤に出演の経緯や思い、表現者としての生き様と哲学を聞いた。

  ◇   ◇

 ‐宮藤監督のオファーで商業映画で初の本格的な演技となりましたが、不安はありましたか。

 「もちろんありました。『ヘリウッド』(82年公開のインディーズ映画)に出たり、『不滅の男 エンケン対日本武道館』(05年公開、アルタミラピクチャーズ製作、配給のドキュメンタリー映画)を監督したり、『20世紀少年最終章 ぼくらの旗』(09年)に“遠藤健児”(原作者・浦沢直樹氏がオマージュを捧げて命名)としてチラッと出たことはありましたけど、それくらいだったので。出るからにはちゃんとやりたいと思った」

 ◆1969年のデビューからジャンルにとらわれず、自分の言葉に向き合う“言音一致の純音楽”を掲げ、商業ベースに乗らずとも世代を超えたファンに支持されてきた。その1人が「あまちゃん」で“国民的人気脚本家”となった宮藤官九郎だ。監督3作目となる今作で、宮藤はリスペクトする遠藤に脚本を当て書きし、66歳の新人俳優が誕生した。SMAP・草なぎ剛らとレッドカーペットや舞台あいさつで肩を並べるなど芸能界の表舞台に登場したが、エンケンはエンケン。本質は変わらない。時代がエンケンに追いついたのだ。

 ‐ご出演の経緯は。

 「初めは『歌だけ』という話でメールが来たのですが、次は監督が僕の家に来て『役をやって欲しい』と。『できるかな。そんなに甘くない』と思いました。やっぱり、僕は音楽家ですから」

 ‐それでもやり遂げたのは“エンケン・ファン”である宮藤さんの存在があったからですね。

 「僕の頭の中で『監督は俺の音楽が好きなんだ』というのが基礎にあったから、それが一つ安心するところでしたね。ヘタなりに普通にやっていれば許してくれるんだなと思って演じました」

 ◆遠藤は映画の舞台となる団地をはいかいする認知症の老人を演じる。路上でラブソングを演奏中の若いバンドからグレッチ・ホワイトファルコン(実際に遠藤愛用のエレキギター)を強奪し、自作曲「ド・素人はスッコンデロォ!」を絶唱するシーンは圧巻だ。

 ‐今作で“エンケン”を初体験した人は衝撃を受けたと思います。

 「びっくりでしょうね(笑)。映画はそれだけじゃ済まないですけど、歌の部分では、『あっ、こんなヤツがいたんだ』と思っていただけると、うれしいですね」

 ‐宮藤監督は「ド・素人‐」の演奏を入れたくて脚本を書き「エンケンさんが出てくれなかったらこの映画は成立しなかった」と語ってます。

 「彼は『不滅の男‐』を見て、その曲がすごく好きになったみたいですね。『言葉が当たってる』と言ってましたね」

 ‐この映画は“中学生の妄想”がテーマですが、遠藤さん自身はどのような中学生でしたか。

 「クレージーキャッツの『スーダラ節』がはやっていた中学3年の時、クラスで先生のために何かを捧げる“謝恩会”があったんです。僕はおとなしい生徒だったんだけど、教室の後ろにあったほうきを持ち、ギターを弾くマネをして歌いながら走り回ったら大受けした。翌朝の職員会議で『遠藤はおかしくなった』と問題になったって言われましたけど(笑)」

 ‐それが音楽表現の原体験だったのですか。

 「スーダラ節に対して自分の中で『これだ!』と興奮するものがあったんでしょうね。なぜ、ギターも弾けないのに、ああやって走り出したのか、今につながるところがあるから不思議だと思います。その当時はまさか将来、自分で曲を作ってギターを弾いて歌っているなんて全く考えてもみなかったですけどね」

 ‐ギターを弾き始めたのが大学(明治学院大)入学ごろで22歳にしてデビューと短期間で音楽にのめり込まれました。

 「(当時)込められたもの、うっ積したものがあったんでしょうね」

 ◆72年にシングルヒットした「カレーライス」。“君(きみ)”が台所で作るカレーの香り、それをねだる愛猫の鳴き声、辛いのが好きか甘いのが好きか、テレビの中では誰かがお腹(なか)を切って「痛いだろうにね」‐。三島由紀夫が自決した70年、同世代の社会的な“運動”とは一線を画し、遠藤は個人の心象風景を歌った。「日本語フォーク&ロックの草分け的存在」と評される詞世界は彼のバックバンドを務めた「はっぴいえんど」の作詞家・松本隆に投影され、吉田拓郎は先を走る遠藤を追った。

 ‐団塊世代にはフォーク歌手、70年代後半から80年代にかけてはパンクやテクノといった時代の空気を取り入れた先鋭的なミュージシャン、90年代以降は“純音楽家”と多様な顔があります。

 「その“取り入れる”という意識はなくて、いろんな音楽が好きなんです。フォークソングはそんなに聴かなくて、ハードロックが好きですね。もちろん、ボブ・ディランやニール・ヤングは聴いていたけど、レッド・ツェッペリン、フー、ドアーズとか、ものすごく好きだった。昔から激しい曲が好きでした。演奏する時は頭の中に全部そういう好きなものが入っています。1人でハードロックをやってきた」

 ‐一方で「ミッチー音頭」(青山ミチ)のカバーや、平山みきさんとデュエットした自作「哀愁の東京タワー」など、歌謡曲へのオマージュも作品から感じとれます。

 「昔からアイドルが好きで、郷ひろみさん、田原俊彦さん、松田聖子さん、中森明菜さん…。それ以前では島倉千代子さん、小林旭さんも好きで昔から体の中に入ってるんですね。小林旭さんの『さすらい』は名曲ですよ。詞がすごいです」

 ‐いろんな音楽に影響を受けたわけですか。

 「“影響”というのはないです。ただ、いい音楽がその季節や時代に出てきた時に『こいつ、いいライバルだな』って思いながらやってきたことは確かです。ちょっと前ならクラフトワークやセックス・ピストルズ、最近ではレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンとか、俺の中で『こいつに負けたくない』っていうのがある。年上の小林旭さんに“こいつ”なんて言うのは失礼ですけど、その“負けたくない”が俺の中で充満して音や言葉になって出てくる。クラシックも民謡も演歌も、音楽として嫌いなものはないですよ。よければ何でもいいと思います」

 ‐今年元日のライブで「紅白歌合戦に出たい。矢沢永吉がライバル」とおっしゃられたことが記憶に残っています。

 「紅白、出たいですね」

 ‐ライブのアンコールでも歌われる「夢よ叫べ」を“紅白予定曲”として掲げておられます。

 「こういう音楽もあるんだよ、見てくれよという気持ちはあります。俺みたいなのがいてもいい、こういうヤツもいるんだということが伝われば。コツコツ1人で自分の歌を歌っている人は日本中、世界中にいると思うんだけど、そういう人たちが中々(世に)出てこられない。俺が紅白に出て日本の音楽を変えてやる!と思っています」

 ◆5月29日に96年から昨年までスタジオ録音された楽曲を編集したベストアルバムを発表し、6月4日に京都「拾得」、5日に大阪・十三「ファンダンゴ」、6日に名古屋・今池「得三」、12日に東京「新宿ロフト」で記念ライブを開催。アンプを背負ってエレキギターをごう音でかき鳴らすスタイルを40歳で始め、還暦を過ぎてなお過激さを増す。ギターを弾きながらドラムを叩く荒業、ほとばしる汗、ノドの奥から魂が飛び出さんばかりの絶唱。この新譜は“純音楽”が立ち上がっていくドキュメントだ。

 ‐「エンケンロックベスト盤1996~2012」に込めた思いは。

 「いい音楽か悪い音楽かだけ判断してもらえればそれでいいです。この中に『フォロパジャクエンNo.1』という曲があって、フォーク、ロック、パンク、ジャズ、クラシック、演歌(それらの頭文字が曲名)…と、好きな音楽はその人にとってのいわゆる“八百万(やおよろず)の神々の歌”なんだと歌っています。歌ってる僕たちも一人一人が八百万の神々であり、一人一人の叫びであると。日本はまだ本当の意味で“自由民主”に至ってないと思うから、歌によって、もっと昔の“自由民権”に戻したいと。いい歌は自由民権の礎だと僕は思っています」

 ‐「頑張れ日本」(96年)はサッカー日本代表が悲願のW杯初出場に挑んだ時代の曲ですね。

 「誰にも頼まれていないのに日本サッカーの応援歌を作ったという(笑)。音楽もそうだけど、『俺の姿だ!』って見せてくれるものが一番すごいと僕は思っていて、サッカーにそれを感じる。サッカーは民主主義の根本です。みんなで試合を見ながら『あいつ、もっと動けばいいのに』と言い合えるから。日本にサッカーが入ってきたことは大きいと思います」

 ‐「俺の姿だ!」を感じる選手は誰ですか。

 「ゴン中山ですね。自分の打つべき瞬間があると思ったら、髪の毛一本分でも先に飛び込んでヘディングして。それがサッカーの基本だと思うし、物作りの基本でもある。髪の毛一本分でも必死に手を伸ばして言葉をつかみ、音を取る。海外だと(元イタリア代表の)ガットゥーゾというケンカばかりしてる選手に“俺の姿”を感じます」

 ‐ところで、エンケンさんといえば猫。「寝図美(ねずみ)」と名付けた愛猫は「寝図美よこれが太平洋だ」という曲になり、71年のセカンドアルバム「満足できるかな」に収録されて今もライブで歌われています。

 「わざわざ横須賀線に猫を乗せて海を見に連れて行ったんです。ちゃんと猫の切符を買って(笑)。自分でも今考えるとよくやったなって思うけど、真剣だったんです。寝図見は大家さんに見つかって飼えなくなり、細野晴臣さんが『引き取っとくよ』って預かってくれた。彼はかわいがってくれましたよ。寝図美は細野さんがYMOで栄華を極める中、彼の家で亡くなりました。享年14。幸せな一生でした」

 ‐70年代には東京・渋谷で「ワルツ」という紅茶とカレーの店をやられて、ライスを三角すいに盛った「ピラミッドカレー」が絶品だったという伝説が残っています。

 「(俳優の)佐野史郎君が一番最初のお客さんです。彼が東京に出てきたばかりで。開店の時にスケッチブックを抱えて階段をコツコツ上ってきたヤツがいて、それが佐野君だった。後で彼から聞かされたんですが」

 ‐80年代半ばには佐野さんがバックでギターを弾いていた時期もあり、縁ってつながっていると思いますし、今回の「中学生‐」で遠藤さんを知った新たな層ともつながっていくと思います。

 「僕自身は変わらないです。自分でやりたいようにやって、それでライブに来てくださる人がいればうれしいです。歌い始めた時から、お説教の音楽だけはやりたくなかった。お説教していると思ったら自分で辞めますね。創造する者に『みんなが元気になってもらうために歌う』なんて言う権利はないし、ウソだと思う。歌とか芸術を通して人に元気になってほしいという前に、自分で元気になる音楽を作るべきです。そうすれば、この人は自分のことをきちっと歌っているなと伝わるし、『人間を辞めるな』って言葉につながる」

 ‐傑作「不滅の男」じゃないですけど、“頑張れよなんて言うんじゃないよ”ですね。

 「『頑張れよ』なんて言わなくても伝わるんだと。それは歌い出した時から変わらないです」

 ‐ライブでの重いアンプを背負う姿に何か表現者の覚悟を感じます。

 「10ワットのアンプを背中にくくりつけてね。歌舞伎も好きなんで、絵柄として背負子(しょいこ)を背負ったじいさんの代わりにアンプを背負ったら面白いだろうと思って。音がモニターなしでもよく聞こえるんですよ。『不滅の男』を走り回って演奏していると、アンプがギャ~!って骨に響く。骨電動(こつでんどう)です(笑)」

 ‐その姿が今回の映画で背中を丸めて疾走する“井上のおじい”役のリズム感に重なります。

 「表現の根本はリズムですから。映画もプロレスもそうだし、乗ってる文章にも言音一致の純音楽が聞こえてくる。志賀直哉の『リズム』という短編小説は名作です。夏目漱石の『草枕』は『東京ワッショイ』という曲と一緒で“人はどこに行っても同じだから、ここでやるしかないんだよ”と歌ってる文章です。漱石さんには『俺が考えてたのと同じこと言ってる。ライバルだ』と思う。常にそういう相手を探してここまで来ました」

 ‐音楽家でなかったとしたら、職業としてやりたい仕事は何ですか。

 「サッカー選手、絵描き、映画、テレビの脚本家、映画監督、古本屋、将棋士、放射能退治の研究者などなど、です」

 ‐10年後は何をされているでしょうか。

 「歌っています。今回のベスト盤にも入っている『史上最長寿のロックンローラー』という曲は99歳の白寿の歌なので、10年後もまだ通過点…だと、思いたい(笑)」

 遠藤賢司(えんどう・けんじ)1947年1月13日、茨城県ひたちなか市出身。69年、シングル「ほんとだよ/猫が眠ってる」でデビュー。ギターを琵琶のように弾く奏法で注目される。70年にファーストアルバム「niyago」発表。71年のセカンド「満足できるかな」は、はっぴいえんどの「風街ろまん」を抑えてニューミュージックマガジン誌の日本のロック賞1位に。横尾忠則がジャケットを手掛けた「KENJI」(74年)と「東京ワッショイ」(79年)、ミディ移籍後の「夢よ叫べ」(96年)といった名盤をはじめ、ライブ盤、ベスト盤など含めて20枚以上のアルバムを残し、現在もライブハウスを中心に精力的に活動を続ける。詳細はenkenn.com

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