海老名香葉子さん命ある限り戦争語り継ぐ

 著名人が戦争を語り継ぎ、伝えていく連載「戦後70年、いま、伝えたいこと」の最終回は故林家三平氏の妻でエッセイストの海老名香葉子さん(82)。海老名さんは1945年3月10日の東京大空襲で家族6人を失い、12歳の年に終戦を迎えた。戦災孤児として生きた自身の体験を語り継ぐことを自分の「使命」と捉え、活動を続けている。終戦から70年の時間が流れ、戦争体験者は減少し、高齢化が進むが、「命がある限り伝えたい」と使命に燃える海老名さんの思いとは-。

 「戦後は生きる戦いでした。食べること、眠る所。もう、夢中でした。戦争は哀しいものです」。12歳で戦災孤児となってからの月日を、海老名さんは静かに語り始めた。

 米軍の焼夷(しょうい)弾が下町を火の海にした東京大空襲。静岡県沼津市に疎開していた海老名さんは助かったが、両親、兄弟ら6人の死を唯一、生き残った3番目の兄から告げられた。

 終戦後、東京で親戚の家を転々とした。闇市で手に入れた麦の皮を煮て食べ、春には焼け野原に生えた雑草を摘んだ。「つらくなると、家があった場所(現墨田区)に行って家族の名前を呼んで泣くだけ泣きました。焼け跡を掘り起こすと、弟の布団の切れ端やお茶碗のかけらが出てきました」

家族は行方不明

 両親たちは行方不明のまま。遺骨を手にすることもできず70年が過ぎた。毎年3月10日には家族の最期の足跡をたどり、花を供え続けている。

 戦争体験を語り、児童向け小説などを書き始めたのは、下町の住民でさえ東京大空襲を知らなくなっていることに危機感を抱いたからだった。「伝えていかなければ、戦争で亡くなった人たちに申し訳ない。私の使命だと思いました」。自分の体験を聞かせた子供たちが「ママ、かわいそうだったね」と涙する姿に、「小さい子供でも教えれば分かる」と確信したのも行動する力となった。

 歴史を学ぶため、戦禍に見舞われた国内外の地にも足を運んだ。「アメリカ憎し」だった心は、渡米した際の戦争負傷者との出会いによって氷解した。「あちらも戦争で苦しい思いをしたんだなと知りました。戦争がいけなかったんです」

 今でも思う。「3月10日で、なぜ戦争をやめられなかったのか。2時間で10万人が死んだんです。あそこで戦争をやめていれば、沖縄戦も、広島も長崎も、熊谷(8月14日の空襲)だってなかった」。時計の針は戻せないと分かっていても、無念は消せない。

 東京・上野で慰霊の集いを始めて11年。当初は家族と弟子たちの集まりだったが、輪は広がり、地元の小学生も含め、毎年1000人以上と共に戦争の悲惨さを語り、平和が続くことを祈る。

 「時がたつと戦争体験者がいなくなる。あと10年たつとどうなっているか。だから、今、この戦後70年を大事にしないと。永遠に戦争がないよう、命の限り伝えていきます」

 海老名さんは、使命を全うする強い決意をにじませた。

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