あれから60年以上-格段に進歩した沖縄の野球 カープOB安仁屋宗八氏が振り返る昭和プロ野球
今夏の甲子園で初優勝した沖縄尚学のOBで、広島、阪神で通算119勝をマークし、現在はデイリースポーツ評論家を務める安仁屋宗八氏が、高校球児だった当時の記憶を振り返る。
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沖縄尚学ナインと関係者のみなさん、優勝おめでとうございます。甲子園大会はこちらも力が入ったね。改めて拍手を贈りたいと思う。
春も夏も高校野球は毎年見ているけど、やっぱり昔を思い出しますよ。前身の沖縄高校の投手として初めて甲子園に出場したのは1962年の夏だった。
(沖縄返還前。話題が先行し、周囲が本土復帰熱で盛り上がる中、藤田まことから招待を受けたことで、梅田コマ劇場でのお笑いの舞台にも上がっている安仁屋さん。初戦の相手は優勝候補の広陵だった)
当時は日本で唯一の地上戦が行われた沖縄の代表と、初めて原子爆弾が投下された広島代表の対戦ということで、また違う意味で注目されたものですよ。実際に相手チームには原爆で鼓膜を失った選手もいたから。
結果は4-6。一度は追いついたけど、スクイズ失敗やらサインミスやらで逆転できずに負けてしまった。でもそのときの絆とでもいうのか。その後、敵味方関係なく、一緒に戦った仲間同士で何度も食事会を開いた。
沖縄に生まれて、甲子園では広島県の代表校と対戦し、カープに入団しているのだから、これも縁なのかなあ。
ただ、僕にしてみれば「甲子園に出場できた」という喜びよりも、南九州大会で宮崎代表(大淀)に勝って本大会出場を決めたという喜びのほうがはるかに大きかった。
それ以前、夏は首里が一度、甲子園に出ていたが“1県1代表”の記念大会。九州の高い壁を乗り越えて本土への切符を手にするのは沖縄勢の悲願だったからね。
沖縄で一番になって宮崎の高校にも勝つ。それだけを目標にして祝い事に出ることもなく、ひたすら練習に明け暮れたものだ。日が落ちても走ることはできると言われ、真っ暗な中、20キロぐらい毎日走ってたね。
あのころは水を飲んではダメという時代だったからランニングの途中でサトウキビやトマト、キュウリを畑から頂戴してこっそり水分補給をしていたよ。(笑い)
監督は戦時中、ニューギニア戦線に従軍していた元陸軍中尉で野球の指導は基本の徹底だった。荒い言葉は使わないが、目が鋭い人。目で物を言うというタイプで怖かった。
あれから60年以上。僕らは甲子園で1勝もできずに終わったが、近年の沖縄尚学の活躍は目覚ましい。選抜大会では2度も優勝し、甲子園通算33勝だってね。プロ野球選手も沖縄全土からだとかなりの人数になる。
沖縄野球の土台を築き、発展させたのは豊見城や沖縄水産で監督をされた栽弘義さんだと思いますよ。生徒を自分の家に住まわして面倒を見るほどの情熱があった。あの人の功績は大きい。
それと見逃してはならないのがプロ野球の沖縄キャンプ。多くの球団が誘致を受け、練習するようになってからは球場施設が格段によくなった。また小さいときからキャンプを見て、学ぶこともできるようになった。
僕らのころは公式戦でもスタンドのない“グラウンド”で試合をしていたからね。環境の変化が沖縄野球の進歩につながったのは間違いないね。
僕はマツダスタジアムでのカープの試合には必ず顔を出して練習から見ている。そこでいつもカープの選手からパワーをもらっているが、この夏は母校の後輩たちからもたくさん元気をもらいましたよ。感謝したいね。
◇安仁屋 宗八(あにや・そうはち)1944年8月17日生まれ。沖縄県出身。沖縄高(現沖縄尚学)のエースで62年夏に甲子園出場。琉球煙草を経て64年広島に入団。75年阪神に移籍し、同年に最優秀防御率とカムバック賞を受賞。80年に広島へ復帰し、81年引退。実働18年、通算655試合登板、119勝124敗22セーブ。引退後は広島の投手コーチ、2軍監督などを歴任。2013年12月から広島カープOB会長。22年から名誉会長。





