石田三成を追って~佐和山城跡【下】

 佐和山城跡
 徳川家康が佐和山城落城を見届けた丘=佐和山城跡からのぞむ
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 関ケ原の合戦の5年前となる1595(文禄4)年、石田三成は豊臣秀吉に取り立てられて佐和山城主となった。天下分け目の戦いは慶長5(1600)年9月15日早朝に始まり、1日で決着。翌日から東軍による佐和山城への総攻撃が始まった。戦国の世に名をはせた三成ゆかりの地を訪ねる2回続きの(下)では佐和山城跡を散策。城にいた女性が東軍の暴行をおそれ次々と身投げした崖には「血染めのもみじ」と呼ばれる木が立っていた。

 ◇   ◇

 佐和山の標高は232・5メートルなので大した高さではない。同行してくれる「三成伝説」の著者・田附清子さんは、三成が最後に身を隠していたとされる「オトチ洞窟」の標高が約560メートルであることを引き合いに出し、「オトチ洞窟に比べたら大したことない高さですから」と“安心宣言”したが、かなりキツイ道のりだった。

 城跡への道は龍潭寺(りょうたんじ)の参道から入っていく。三成没後に佐和山城を居城とした井伊家の菩提寺だ。参道の両脇には古い墓がずらっと並ぶ。井伊家の家臣たちのものだそうだ。風雨で字はほぼ消えてしまい、代わりにこけがところどころにはえている。夜、1人では絶対に歩けない。

 低い山だし、楽勝だと思っていた道は急な斜面が何カ所もあり、徐々に息が上がる。「大したことない」なんてことはなく、フツーに登山だ。距離は長くはなく、2、30分で山頂に着いた。

 頂上からは小高い丘が見え、田附さんによると徳川家康はそこに陣取って佐和山城落城を見届けたという。

 関ケ原の合戦に敗れた三成は佐和山に帰ることもできず、城は三成の父・正継、兄・正澄が徳川方の攻撃に対峙(たいじ)したが敗れ、自害。開城となった。城には女性が大勢いて、徳川方に乱暴されることを恐れ、次々と谷へ身投げしていったという。その場所が「女郎谷」と呼ばれる。田附さんによると、女郎とは必ずしも遊女のことを指すわけではないという。

 何人もの女性が身投げしたとされる断崖にはもみじが1本立つ。紅葉の季節にはひときわ赤く染まるそうで、「血染めのもみじ」との別称も。身投げしても簡単に絶命できなかった女性たちのうめき声が三日三晩続いたとの言い伝えも残る。

 くれぐれも夜、1人では行かないように…。

 ▼アクセス 龍潭寺へはJR彦根駅から彦根城下巡回バスに乗って「龍潭寺」下車。または同駅からタクシーで5分。または徒歩25分。住所は彦根市古沢町大洞。

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