新球団社長の1・17

 【1月16日】

 タレント千秋の呟きに「社長」が出てきた。ハッシュタグ「政財界後援会」とし「(岡田監督が)連覇したらどこに行きたいかの話をしてる。新しい社長に」と…。前夜、15日のXの投稿である。

 どうやら監督の話し相手は、阪神球団新社長の粟井一夫だ。

 「後援会」とは、千秋のお父様も出席する恒例のアレである。僕らは会の中身を伺いしれないけれど、話題に「連覇」があがるのは当然だろう。果たして「go on」すれば、次のV旅行はどこがいいか。夢が膨らむそんなやりとりも想像がつく。

 1月17日に「連覇」について書くのは特別なことである。

 当欄は、毎年この日書くことが決まっている。阪神・淡路大震災から29年。あの年、95年の春に神戸に本社をおく新聞社に入社した僕にとって、これを書き続けることが使命だとも思っている。

 「震災の前夜、レストランのシェフの送別会でね。あの頃は宴席があれば、決まって朝方まで盛り上がっていたのだけど、あの夜はなぜか早めに切り上げて…」

 新球団社長の粟井からそんな話を聞いたことがある。

 「震災の前夜」とは、95年1月16日。88年入社の粟井は当時8年目。阪神電鉄が新規事業として立ち上げた神戸・新在家のレストラン会社に従事していた。レンガ倉庫の商業施設で、400席を数えるシーフード&ステーキレストランが主戦場。このときはまだ将来自分がタイガースの球団トップに…などとは夢にも思わなかった。

 営業時間を過ぎた夜11時から同レストランでスタートした送別会は、午前2時でお開きに…。あの夜、宴席がいつもように朝方まで続いていれば、「今の粟井」はない。なぜなら、同レンガ倉庫は翌朝全壊したからである。

 1月17日は、粟井にとっても忘れがたい日。というより、風化しようのない日付である。

 震災の朝、粟井は西宮の自宅から自転車で2時間かけて、倒壊の家屋、ひび割れた道路を横目にレストランへひた走った。ケータイのない時代。スタッフ全員の安否を確認するまでに3日を要した。

 「全員生きていたことが本当に救いだったけど、街があの惨状でしたから…。そりゃ、つらかったし、しんどかった…」 

 崩れ落ちたレストランは再建不能で新規事業は頓挫。29年前を悲しげに述懐する粟井の口ぶりが忘れられない。

 営業、企画だけじゃない。仕入れ、物流…レジ打ちも、皿洗いもやった。若さにまかせて朝から晩まで遮二無二働いた。あのレストランで研鑽を積んだ日々は、新球団社長にとってどんな意味を持つのか。そう問いかけてみると、粟井は即答するのだ。

 「職業人としての原点。今の仕事にすごく生きています」

 先日も書いたけれど、元日被災した能登半島には、粟井の妻の実家がある。他人事ではない。自身ができること…。痛みを知るリーダーが前を向いて今を生きる。復興の光を信じて。=敬称略=

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