余命宣告されるも「春は来る」と信じ、治療を開始 30歳で「花咲乳がん」を発症した女性「痛みはなくなる!自分で歩いてまた韓国に行く!」
現在40歳で抗がん剤治療中の女性がInstagramに投稿した「寝たきりになった余命宣告前の私へ」という動画が、大きな反響を呼んでいます。この動画は、34歳で「年内もつかどうか」と余命宣告された彼女が、過酷な闘病生活を経て「当たり前の日常」を取り戻すまでの軌跡をまとめたもの。寝たきりの状態から立って歩けるまでに回復した姿を見せる彼女に、「よく頑張りましたね」「願えば叶う」など温かい声が相次ぎました。
投稿主は元アパレル店員で、現在は自身の闘病経験をもとに治療経過や日常生活についてSNSで発信しているミミポポさん(@mimi._.popo)。26歳で乳がんと診断されてから医療不信に陥り、孤独な闘病の末に迎えた「真冬」のような日々。「春は必ず来る」と信じ抜いた先に待っていた「当たり前の日常のありがたさ」について、当時の心境や現在の病状について話を聞きました。
ミミポポさんのがん発覚から現在までの歩みについて記します。
26歳:乳がん発覚
28歳~30歳:一時的な改善と、その後の激化
34歳:人生の「真冬」と余命宣告
35歳~現在:劇的な回復と社会復帰
現在は抗がん剤の副作用による止まらない鼻血や、突発的な体調不良に見舞われることもありますが、その都度、信頼できる医療チームと連携して乗り越えているといいます。
■病院から夜に電話
--26歳で乳がんと診断されるに至った経緯を教えてください。当時、ご自身で自覚症状などはありましたか?
最初は本当に偶然でした。脱毛サロンに通っていて、施術前に全身の毛を剃る必要があったんです。普段は剃らないような胸の内側を、湾曲に沿って押さえながら剃っていたら、手にコロッとしたパチンコ玉くらいのしこりが当たって、「何これ?」って。
でも当時は20代でしたし乳がんなんて全く考えてなくて、「とりあえず病院に行っておこう」くらいの軽い気持ちでした。最初は知識がなさすぎて婦人科に行ってしまって、そこで乳腺外来に行くように言われて、検査してもらいました。
先生も「若いからどうせ良性のしこりだろう」という感じだったんですけど、念のため細胞診をして、1~2週間後に結果を聞きに来てくださいと。ところが、3日後くらいに病院から夜に電話があったんです。その瞬間「おかしい」って分かりますよね。「悪性の結果が出たから今すぐもう一回来てほしい」と言われました。
当時、痛みは全くなかったです。ただ、今思えば突き刺すような「ズシュッ」っていう痛みを定期的に感じていたことはありました。それを同じように若くして乳がんになった知り合いに話したら、その人も同じ症状があったと言っていたので、乳がんの症状だったのかもしれません。
--診断後、仕事や生活はどのように変化しましたか?
当時はアパレルで販売員をしていました。病院から電話をもらったのも仕事中で、周りの人もその状況を知っていたので、すぐに「帰っていいよ」と言ってくれて。その日から私が仕事どころじゃないというのを理解してくれて、実質的にそこからアパレルの仕事は辞めました。
実は乳がん発覚の1年半前から、パーソナルカラーアナリストの資格を取ろうと勉強していたんです。ちょうど発覚してから約1カ月後に試験があり、正直気持ち的にはそれどころじゃなかったんですが、母に「取っておいたら」と言われて、恐怖の中で勉強を続けて資格を取得しました。その後、気持ちが落ち着いてきたタイミングで、自宅でパーソナルカラー診断の仕事を始めました。
■乳がんでも「今まで通りの生活でいい」という医師の言葉に…
--診断を受けてから、まずはどのような治療を受けたのでしょうか?
発見時のがんはステージ0だったので、症状自体はなかったんです。しこりがあるだけで、痛みもない。でも、最初に手術を勧められた時、先生から「ステージ0だけど、しこりを取った後に化学治療や放射線治療も全部フルコースでやる」と言われて。
その時、たまたま1カ月後に韓国旅行を予定していたんです。「旅行って行っても大丈夫ですか?」と医師に聞いたところ、「手術したら治療しながら今まで通り好きに暮らしていいよ」と言われて。ポジティブな意味で言ってくれたと思うんですが、当時の私はそれを良い意味に捉えられなかったんですよね。例えば風邪をひいた時でも「安静にしろ」って言われるものなのに、乳がんで「今まで通りの生活でいい」って、すごく無責任に聞こえてしまって…。
それで医療不信になってしまい、病院を頼ることをやめて自分でいろいろ調べ始めました。その中で、がんの原因の一つが免疫力の低下だとわかり、免疫力を上げる生活に変えようと思ったんです。最初の数カ月は本当に恐怖の中で、「できることをやらなくちゃ」という感じで、食事療法に取り組みました。
そうして28歳くらいの時に再度検査に行ったら、しこりが発覚時の半分以下、1.5cmから6.8mmまで小さくなっていたんです。「このままなくなるかも」と思い、そのまま免疫力を上げる治療を続けることにしました。小さくなった状態で取り除くという選択肢もありましたが、医療不信はまだ続いていたので、手術はしたくなかったんです。
--その後、状況が悪化していったのですか?どのような闘病生活を送っていたのか教えてください。
30歳になる少し前くらいから、しこりのところが赤く盛り上がってきて、時には泣き叫ぶほどの痛みを感じるようになりました。内側からナイフでザクザク刺されるような痛みです。
そして30歳の時、ある日普通に歩いていたら、いきなりドバーっと浸出液が出て、皮膚が破けたんです。それが花咲乳がん(皮膚に露出した乳がん)の始まりでした。でも当時は東洋医学的な考え方に寄っていたので、「悪いものが外に出てきた」くらいに捉えていて、悪化だとは考えもしませんでした。
そこからはがんの進行が早くて、あれよあれよとどんどん大きくなっていき…。34歳を迎えたころには、握りこぶしを超える大きさになっていました。胸から5センチくらい飛び出している状態です。また、少しでも腕を上げると胸から出血するようになっていて。動脈性の出血なので、5ミリくらいの太さでホースのようにプシューっと出るんです。押さえないと出血が止まらないけど、押さえると別の場所からまた血が出てくる…3箇所同時に押さえて、止血に毎日2~3時間かかるような状況でした。
■知識不足から「抗がん剤は毒のようなもので、始めたら死ぬ」と思い込み
--なぜ病院に行かなかったのでしょうか?
自分でもよくわからないんです。すごく閉鎖的になっていて、毎日を生きることに必死すぎて、病院に行くという考えにもならなかった。途中、花咲乳がんが大きくなり始めた頃に、友達に勧められて病院に行ったこともあったんです。最初に受診した病院と同じところへ行ったんですが、そこで「全摘しかない、それも間に合うかわからない。抗がん剤しかない」と言われて。
当時の私は知識がなかったゆえに、「抗がん剤は毒のようなもので、始めたら死ぬ」くらいに考えていたんです。だから「手術できるくらいまで小さくしてから」と思っていたら、どんどん大きくなってしまった。
同時に骨転移も進んでいました。最初は花咲乳がんが大きくなったことで、仰向けに寝られなくなったんです。胸を開くような体勢で寝ると血が出るので、ソファーの肘置きに頭を置いて背中を丸め、体を半分起こしたような状態で寝るようになりました。
そうしたら今度は肩甲骨が上がらなくなり、首も回らなくなって…。でも自分では「骨転移している」とは考えられなくて、「ソファで寝たから体が痛むんだ」と思い込んでいました。
しかしある日トイレに向かったところ、いきなり便座に腰を掛けられなくなったんです。腰が溶けていくというか、自分で支えられない。母を呼んで、脇を持って起き上がらせてもらわないと、座位姿勢がとれなくなってしまいました。
次第にどんどん歩けなくなって、数秒で行ける距離にあるトイレに10分くらいかけて、泣き叫びながら両脇を支えてもらって行くような状態に。ちょっとした段差にも足を上げられなくなって、ついにお風呂場に行けなくなりました。髪の毛が洗えないのが最大のストレスでしたね。
--そこから医療とつながるきっかけは何だったのですか?
ある日、母が歯医者さんに行った時、「歯茎に負担がかかっていますね。すごくストレスが溜まっているようですが、何かあったんですか?」と聞かれて、私のことを話したんです。そうしたら、歯医者さんが訪問看護師さんを紹介してくれて。
そのときも私はまだ医療不信が続いていたので、「看護師」と聞くだけで嫌だったんです。でも「髪の毛を洗ってくれる」と言われて、それなら…と受け入れました。それが34歳の時です。
最初に訪問看護師さんが自宅へ来た時、「なんでこんな状態になるまでほっといたんだ」と怒られると思っていました。でも、まず言われたのは「よく今まで一人で頑張ってきたね」という言葉でした。「否定されなかった、わかってもらえた」と感じて、そこで初めて心を開くことができました。
その後、訪問看護師さんが訪問ドクターを入れてくれて、その方が私の受け入れ先を探すために、いろんな病院へ手紙を書いてくれました。医療不信があるということで、多くの病院は受け入れをためらったんですが、ある医師の先生だけが返事をくれて、そこへ検査を受けに行くことになりました。
■「年内にもつかどうか」
--34歳で余命宣告を受けた時の状況と、その瞬間の率直な気持ちを教えてください。
以前に別の病院でCT検査を受けた際に、「出血しやすい」と伝えていたにもかかわらず、グイッと強めに触られて大量出血したことがあり、トラウマになっていました。また私は薬も嫌だったので造影剤が入れられず、CT検査には後ろ向きだったんです。でも手紙の返事をくれた病院では、「なんで嫌なのか」という理由をちゃんと聞いてくれて、私の意向を汲み取ってくれました。
そうして検査を受けた結果、全身骨転移でした。検査を受けたのが10月頃だったんですが、「年内にもつかどうか」と言われました。しかし余命宣告を受けて、どこかでホッとした自分がいたんです。こんなに辛いんだから当然だよな、と。「骨転移はしていない」と自身にも周囲にも言い聞かせていたのは自分ですが、余命宣告されたことで家族にも「そんなに辛かったんだね」とわかってもらえたことも良かったです。
また、「歩くな」と言われたことにもホッとしましたね。筋肉が固まってしまうかも…と必死の思いで毎日歩くようにしていたんですが、当時の私はすでに左大腿骨の3分の1が骨がなくなっていて、そんな体で歩いていたので、医師からしたら信じられないような状態だったそうです。
悲しみや不安はもちろんありましたが、同時に「絶対に死なない」という確信もわいてきました。私はクリスチャンなのですが、「こんな状態で死んだら神様に不服だから、絶対にこの状態で死ぬわけがない」と思ったんです。正直、26歳で乳がん罹患を告知された時の方が恐怖が強かったかもしれません。
--投稿では余命宣告前の状況を「真冬」と表現されています。このときの心境や、治療を始めてから「春が来る」と信じ続けることができた心の支えについて、お聞かせください。
当時は、毎日「明日こそ良くなっているはず」と希望を持って寝るんですけど、実際には朝起きるとどんどん痛くなって、どんどん歩けなくなって、状況がひどくなっていくばかり。「もう冬は明ける」と信じているのに毎日裏切られて、まさに「真冬」でした。
そこで、「信じる」ことをやめ、「信じ抜く」ことにしたんです。気持ちの問題ですが、諦めそうになっても、信じ抜くことで耐えられました。私はクリスチャンなので神様を信じていましたが、信じぬく対象は自分自身でも、自分の中にある何かしらの思いでも良いと思います。
一方で余命宣告された時は、「あっ、私には命を伸ばすとか、そういうことはできないんだな」と気付かされたんです。それまでは、命のように自分ではコントロールできないものを、必死にコントロールしようとしていたな…と。コントロールできないものを諦める--良い意味でそう手放せたことも気持ちの変化では大きく、前向きになれました。
■「春が来た」と思えた
--治療を始めて、投稿にあるように「春が来た!」と感じた決定的な瞬間はいつでしたか?
痛みがなくなった時だと思います。ホルモン治療から始め、自身の乳がんの性質に合わせた適切な投薬治療を行い、がんの増殖を抑えることに成功しました。これにより、皮膚に露出していた「花咲乳がん」も医学的に消失しています。それまでずっと悪くなっていくばかりだったので、がんはどんどん小さくなっていき、希望が見えました。「朝起きたら、昨日よりもちょっと状況が良くなっている」というのが目に見えてわかるようになった時、「春が来た」と思えたんです。
--現在の病状は、当時と比べてどのように変化していますか?できるようになったことなど、具体的に教えてください。
かつて呼吸を困難にしていた肺転移や、全身の骨転移についても進行が止まり、現在は歩くこともできて、乳がんになる前の暮らしに戻ったような状態です。CT検査では、今も骨の一部に穴が開いたような空洞が見受けられますが、痛みはなく日常生活に支障はありません。一応、「自転車には乗らない」「転ばない」など気をつけてはいますが、日常生活では痛みもなく過ごせています。
治療を始めた当初は、「痛みは完全にはなくならないだろう」と医師から言われていました。しかし私は「痛みはなくなる!自分で歩いて、また韓国に行くんだ!」とずっと口に出していたところ、結果的に言霊になったんです。
治療開始から半年程度で痛みがなくなって、2年ほどで歩けるようになっていたと思います。もちろん段階を踏んでいて、車椅子に座る、車椅子を自分で漕ぐ、歩行器を使って歩く、両杖をついて歩く、一本杖で歩く…そしてついには杖なしで歩けるようになりました。
2026年1月に半年ぶりに受けたCT検査では、過去に手術を行った肝臓のがん部位も順調に縮小・修復されていることが確認されました。現在は「がんが完全に消えた(寛解)」というよりも、医療の力で進行をコントロールし、共生している状態です。
■変わらない日常があることに感謝
--再び自由に歩けるようになりましたが、最近の楽しみはどんなことですか?
「喋る」ことです。闘病中は体がしんどいし、肺転移もあったので息が吸えない状態で、喋ることもできなかったんです。なので、友達とただ喋る、ということが楽しくて。また両手を振って歩けた時も、嬉しかったですね。
当たり前にトイレに行ける、当たり前に自分で水を汲んで飲める-。今ではだんだんと薄れてきていますが、当時を思い出すと「当たり前のことが、また当たり前になった」ことがすごく嬉しい。
印象的だったのは、母と「今日も何も変わらなかったことに感謝だね」という話になったことです。昔は変わり映えのない日々に飽き飽きして変化をいつも求めていましたが、闘病生活を経て、変わらない日常があることに感謝を感じるようになりました。何も悪い方向へ変化しない、当たり前の生活を送ることが今の楽しみです。
--余命宣告を乗り越えて、人生観や日々の生活で最も変わったことは何でしょうか?
先ほども少し触れましたが、余命宣告後は命のように「コントロールできないもの」を手放すことで楽になりました。それまでは厳しい食事療法など、すべてを自分でコントロールしようと無理をしていたので…。また医療面では訪問看護師に始まり、医師、病院と段階的に人を信頼することを学び、長年の医療不信も解消しました。自分でできることは頑張る、できないことは委ねる、と区別するようになって、生きやすくなりましたね。今は医療との繋がりがないほうが怖いと感じています。
■誰かの明日への力に
--余命宣告を受けた時の心境を投稿をしようと思われたきっかけは何でしたか?また、寄せられたコメントで特に心に残っているものがあれば教えてください。
自身の辛い経験を糧にしたいと思い、発信を始めました。ただ病気になった、で終わらせるのは悔しいので、何倍もの喜びに変えようと決めています。
罹患当時、「乳がん」というワードで検索しても不安を煽るような怖い情報しか出てこず、ブログも辛い内容ばかりで余計に不安になりました。だから私は、嘘はつかないけれど人を怖がらせるような発信はしないと決めています。
見た人が少しでも光を感じたり、頑張るエネルギーに繋がったりすれば良いな、という思いです。実際に「勇気をもらえた」「励まされた」という言葉をもらえることもあり、自分の経験が誰かの明日への力になっていると実感できることが嬉しく、発信を続ける原動力になっています。
--自身が乳がん罹患を告知された年代と同じ20代の女性の方へ、セルフチェックの重要性や生活習慣など、アドバイスがあればお願いします。
セルフチェックは正直、私も難しいと思います。でも、しこりを見つけたら、まず病院に早く行った方が良いです。「早期発見・早期治療」と言われるのには意味があります。私は最初、早期発見って「ステージ0とかステージ1じゃないと意味がないのでは」と思っていましたが、たとえステージ3であろうがステージ4であろうが、1日でも早く結果がわかればそれだけ早く対処ができるので、意味がないなんてことはありません。がんはケガとは違って診断されてからすぐにどうにかなるわけではなく、進行期間があります。その期間内でできることもあるかもしれないので、少しでも早く期間を延ばすためにも、病院は早く行くに越したことはないでしょう。
食事や生活習慣については、極端に厳しくする必要はないと思います。心の健康を最優先に、ストレスを感じずにできる範囲でやるのが大切かな、と。
またがんになって特に感じたのは、「保険に入っておけばよかった」ということ。まさか20代でがんになるなんて考えていなかったので、私はがん適用の保険に入っていなかったんです。金銭的にも、保険に入っておくと助かるのではないかと思います。
■生きる希望を決して手放さないこと
--今、人生の“冬”の真っ只中で諦めずに耐えている方に、最も伝えたいメッセージは何ですか?
私は、心の持ちようがとても大切だと実感しています。特に重要なのは、生きる希望を決して手放さないことです。周りが諦めても、自分で自分を諦めないこと。看護師さんたちからも、私が生き抜けたのは生きる希望をずっと持ち続けていたからだと言われました。
必ず、春が来ます。今の自分を見ている未来の自分を想像して、そう言ってあげてください。
--闘病経験で得たものを今後どのように活かしていきたいですか?具体的な目標や夢があれば教えてください。
乳がんの経験は大きな糧ですが、それが全てではありません。発信をしていく中で、ふと「乳がんと戦う自分」の発信になっていたことに気付くタイミングがありました。そうなると、ずっと乳がんになったままでいないといけなくなってしまう…。なので、今後は「がんでいる私」ではなく、「がんの経験をした私=ミミポポ」として発信していきたいです。
私が26歳で罹患した時は周りにがんの経験者がおらず孤独だったので、今はオンラインサロンなどで同じ境遇者の方たちとの繋がりを大切にしています。
また夢を持つとそれがゴールになってしまうので特に決めていませんが、今の自分にできることを精一杯やっていけば、面白い未来が待っていると思っています。
