迷走nWoをT2000が解散に追い込む

 もうすぐ平成が終わる。平成とともにプロレス人生を歩んできたプロレスラー、蝶野正洋が平成のプロレスを振り返った。今回はTEAM2000の結成について語る。

  ◇  ◇

 98年夏に首の古傷を悪化させて長期欠場となった自分は、治療で世界を飛び回った。新日本プロレスにはかかりつけの整体の先生がいたけど、整体は自分に合わなかった経験があって、医者に診てもらうことにしたんだ。

 日本にいる首の治療の権威、NFLミネソタ・バイキングスのチームドクター、ドイツの医者を訪ねたけど、「手術する。今動けているのが不思議だ」と、言うことは同じ。骨が何センチもゆがんでいて普通なら半身不随になっているけど、自分は脊髄を囲んでいる脊柱管が普通の人の倍ぐらいあるおかげで、そこまでなっていないというんだ。医学的なところだとそういう見方をされる。だけど、手術はどうしても嫌だった。結局、わらにもすがる思いで頼ったのは信用していない整体だった。

 訪ねたのは岐阜。知り合いの紹介で、すごく腕のいい人がいた。どうせ治らないと思いながら、MRIの画像とかを持っていっていろいろ説明すると、「治します」と。椎間板がつぶれて、それが神経を圧迫しているんだけど、つぶれているところを指で広げる治し方。周りの筋肉とかをほぐしながら最後に矯正する。住み込みで2時間の治療を1日2、3回。それがすごくよくて、2カ月ほど続けた98年12月ぐらいには治療のメドが立ったんだ。

 そこで会社に連絡したら、すぐに99年2月の札幌大会で復帰戦を組まれてしまった。そんなすぐに試合ができるようなケガじゃないと話をしたけど、発表されたから出ざるをえない。大変だったよ。復帰はできたけど、武藤敬司さんがリーダーとなったnWo JAPANはおかしな方向に進んでいた。単なるパフォーマンスに終わっている。自分には世界へ向けて大きくなっていかないといけないというイメージがあった。オレらが会社を動かそうと。だけど逆に会社に使われて、一チームに成り下がっていた。

 アメリカの本家nWoも内部抗争が始まったりして、おかしくなっていた。こっちも細かく向こうの流れを組み込まないといけないのに、その辺のケアができなくて向こうの流れから外れてしまっていた。自分はnWoはもう長くはない、新しいものを作らないといけない、と考えて新しい黒いユニット、TEAM2000を結成。nWo JAPANと抗争を始めた。そして、自分は00年1月4日の東京ドーム大会で武藤さんとの頂上決戦に勝利。自分が持ち込んだnWo JAPANを解散に追い込んだんだ。(プロレスラー)

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