父・泰治はかつて千葉商で教師をし、野球部の監督を兼務していた時期がある。その後、教職を離れ、日本料理店「みや古」を営むようになってからは、好きな野球から離れていた。

 ただ店を切り盛りしながらも、息子が通う新宿中学のPTAの会長を務めていた。学校というものになぜか縁があった。

 ある日、ちょっとした〝事件〟が起きた。中学1年で野球部員だった7つ年上の長男・達也が、汚れた学生服に血のついた顔で家に帰って来たのだ。この時の様子を掛布はうっすらと記憶している。

千葉市立新宿中学校、野球部時代(前列右から3人目)
千葉市立新宿中学校、野球部時代(前列右から3人目)

 「多分、叩かれたのかな。その姿をおやじが見た時に〝自分がやっていた野球の指導とは違うんじゃないか。そういう野球部なら野球をやる意味がない〟と言ったのを何となく覚えている」

 達也はすぐに退部した。父が辞めさせた。理不尽な指導に我慢がならなかったからだ。

 PTAの会合や行事で学校を訪問することが多かった父・泰治は「自分が息子を辞めさせた」野球部とは一体どんな練習をしているのか。気になり何度か足を運ぶうち、いつしかPTA会長の肩書きのまま野球部の指導者になっていた。

 達也はその後、卓球の道に進んだ。これに影響されて5つ年上の次男・栄治も卓球へ。「甲子園」という父の夢を実現できるのは雅之だけになった。

 剣道を諦めたあとの雅之は土日になると父に連れられ、中学の野球部の練習に〝参加〟した。

 「小学3年から。それが野球と出合うきっかけになった。中学生は僕にとってお兄ちゃん。そういう人に交じって球拾いをするのが楽しかった」

 自宅では父が野球の手ほどきをしてくれた。「中学に入るまでは遊びに毛が生える程度だった」が、庭先で毎日、バットを振った。「20人ほどが座れる」店の宴会場で振ることもあった。こうして「バットを振る習慣」が身についた。

 むりやり振らされることはなかった。枯れ葉にポイントを合わせて振ってみたり、細工した雨樋を伝って上から落ちてくるボールをカーブに見立てて打ってみたり。

 「楽しみながらバットを振ることを覚えさせてくれましたね。打つことに関しては、おやじの存在は大きかった。僕のバッティングはすべて素振りから始まっているかもしれない」

1974年4月
1974年4月

 このころはすでに左で振るようになっていた。掛布には右で打っていた記憶がない。早い時期に父が矯正したからだ。

 千葉市内の新宿小学校を卒業すると、掛布は父が野球部の指導をしている新宿中学校へ進み、親子鷹の挑戦が本格的にスタートした。

 だが、順風ばかりを背中に受けていたわけではなかった。「お前のおやじが監督をしているから試合に出られるんだろう」という先輩のやっかみは耐えがたいものがあった。

 「俺はもうレギュラーで出たくない。先輩を使ってくれ」「お前がレギュラーとして使えるから使っているだけだ。もっと自信をもっていいんだよ」

 こんな肉親同士の近すぎる関係に、掛布は少しずつ疲れを感じるようになっていった。(敬称略)