「もうオレの手の届かないところに」 父が〝認めてくれた〟一方でスーッと離れていく感覚

 昨年1月、阪神タイガースOB会長の掛布雅之氏(70)が野球殿堂入りを果たし、野球界に残した功績があらためて注目された。テスト生から運を開いた無名選手が華々しくデビュー、スターの役目を終えると潔く引退して以来、37年後の栄誉だった。今連載では同氏が自身の生い立ちまでさかのぼり、濃縮された野球人生を振り返る。(この連載は2026年4月8日~2026年5月29日の期間、デイリースポーツ紙面に掲載しました)

笑顔で幼少期を振り返る
笑顔で幼少期を振り返る

剣道から野球の世界へ

 今から50年前、猛烈な勢いで若トラが成長していた。駆け出しのころ、名前をまともに読んですらもらえなかった青年が、一人前の野球選手になっていた。

 1976年、入団3年目、初の打率3割、飛躍を遂げたシーズン。

 掛布はこの年の暮れも千葉の実家に帰り、大晦日を父母やきょうだいと一緒に過ごした。家族との団らんを味わえる数日間の里帰り。それでも紅白歌合戦を見終えると、バットを持って庭先に出て、いつもの年と同じように「年をまたぐ素振り」を始めた。

 遠くで鐘を撞く音がする。掛布は暗がりの中で心を静め、真ん中低めただ一点に集中する。「除夜の鐘を聞きながらその年の反省をし、それが新しい年を迎えるスイングにつながっていく」。往く年に別れを告げ、来る年に思いを込める、掛布流の新年の儀式だった。

千葉の自宅前で(就学前)
千葉の自宅前で(就学前)

 ただこの年だけは、父親である泰治の様子が違っていた。雅之を野球の世界に導き指導してくれた人。その夜も目の前でスイングチェックをしていた父は、素振りが終わったあとに意外なことを口にした。

 「もう、オレの手の届かないところに行ってしまったな」

 その年のシーズン。122試合に出場し、27本塁打、83打点、打率・325を残すまでに成長した息子に対し、今さら口出しなどできないという意味だった。

 「あのとき寂しそうに言われたのをすっごく覚えているけど、それは喜びでもあったんでしょうねぇ」

 大好きだった剣道から野球へと進むべき方向を変えたのは父だった。知らないうちに左打ちに矯正したのも父だ。

きょうだいで海水浴。(左から)長男、次男、本人(幼稚園)、次女=千葉・出洲海岸
きょうだいで海水浴。(左から)長男、次男、本人(幼稚園)、次女=千葉・出洲海岸

 野球の楽しさを教えてくれたのも、ぶん殴ってまで野球の厳しさを叩き込んでくれたのも、阪神の練習生として送り出してくれたのも、4年で決着をつけろと厳しく言い放ったのも、すべて父だった。

 だから「あのおやじが認めてくれた」という何とも言えないうれしい気持ちになった。それと同時に、ずっとそばにいて支えてくれていた人が、スーッと離れていくような気もした。心の中でふたつの感情が交錯した。

2人の兄ではなく三男に

 いつごろからか「家は僕中心に動いてくれていた」と掛布は言う。

 正月は元旦から近所の公園でノックを受けた。ノッカーは泰治。ここから掛布家としての一年が始まった。硬いボールは周囲に危ないからと、家に置いてある50個ほどのソフトボールを使った。姉や兄、妹は球拾い。母は家でおせちを調え、雑煮を炊いて待っていた。

 「小さいころからの正月の恒例行事で、家族全員が手伝ってくれた」と言う。ひと汗かき終わったときの「オヤジが喜んでいる顔」が忘れられない。

 野球好きの泰治はかつて千葉商業で教練の授業を受け持ち、柔剣道を中心に指導していた。同時に野球部の監督を務めていたが、甲子園大会という晴れ舞台には縁がなかった。その叶わなかった夢を2人の兄ではなく三男の雅之に託した。

父親譲りの運動神経が理由

 偉大なる打者掛布雅之の光跡をたどれば、成功の原点は〝親子鷹の挑戦〟に行き着くのではないか。だが、目標はあくまでも甲子園出場であり、その視線の先にプロはなかった。

 雅之が父に見込まれた大きな理由は、父親譲りの秀でた運動神経にあったはずだ。子どものころから水泳や体操、サッカーなど、いろんな分野で学校の代表になったという。

 では運動神経に優れていた雅之が、どの時点で野球にのめり込んでいったのか。巧妙に仕掛けて誘った父の手口とは…。(敬称略)

1976年当時の掛布
1976年当時の掛布

1973年度ドラフト6位で阪神入り

 掛布 雅之(かけふ・まさゆき)1955年5月9日生まれ、千葉県出身。現役時代は175センチ、77キロ。右投げ左打ち。習志野2年夏の甲子園では1回戦で東洋大姫路に敗退。73年度ドラフト6位で阪神入り。2年目の75年、106試合に出場しレギュラーの座をつかむ。田淵幸一が西武へ去った後の4番に定着し、79、82、84年に本塁打王、82年に打点王をそれぞれ獲得。85年にはバースに次ぐ40本塁打を放ち、日本一に貢献した。88年限りで現役引退。阪神在籍通算349本塁打は最多。