その日、藤田は名古屋の映画館にいた。隣のシートには村山実が座っていた。遠征中の束の間の息抜きのはずが、大エースと肩を並べるだけで息が詰まった。
上映中、目はスクリーンに向いていたが、頭の中では前日のワンシーンが、恐怖映画のように繰り返し襲ってきた。
1966年4月29日。中日球場で行われたビジターゲーム。前年、初めて導入されたドラフト制度で阪神に2位入団した藤田は新人ながら、この試合に2番・ショートで先発出場していた。
悪夢を見たのは2点リードで迎えた六回裏だった。2死一、二塁から高木守道の打球は三遊間へのゴロ。捕球した藤田は確実を期して三塁での封殺を狙った。
ところが、朝井茂治がベースカバーに入っておらず、慌てて一塁へ投げたが、これも間に合わずに内野安打。その直後に村山が江藤慎一にホームランを浴びた。
フォークボールを左翼席へ運ばれる痛恨の逆転満塁本塁打。開幕後に痛めた右足首が完治せず、ゆっくり走る江藤が生還する前に、村山はさっさと三塁ベンチへ消えていった。
少し頭を冷やしたかったのだろうが、藤田には戻ってくるまでの時間がとてつもなく長く感じられた。
「俺、1年目、まだ18やで。村山さん、怒ってグラブ放り投げてベンチへ帰ってもた。観客、満員。ワーワーゆうて騒いでる。こっちは突っ立ったまま。周りの先輩は慰める言葉もないという感じやった。俺も帰りたかったわ。それにしても、ごっついライナーやった」
3日前の4月26日、神宮球場でのサンケイ(アトムズ)戦でプロ初安打を放ち、さあこれからというとき。藤田に言わせると、プロ野球人生で最も印象深い思い出は、首位打者獲得でも2000安打達成でもなく、この〝村山大噴火事件〟だったという。
その村山が翌朝、「タイラ、行くぞ」と藤田に声をかけてきた。宿舎の大部屋で先輩から「村山さんが呼んでるぞ」と言われたときはギクッとしたが、「沈んでいるだろうから」との気遣いを感じたあとは恐縮するしかなかった。
そのためか、映画のタイトルも内容も「なんやったかなあ」という調子で、まったく覚えていない。
1年目の藤田は1、2軍両方の試合に出て経験を積んだが、同時に疲労も重なった。だから村山は「タイラをできるだけ1軍で使ってほしい」と当時の杉下茂監督(途中退任)に訴えることもあった。
「村山さんは面倒見のいい人で、遠征中はいろんなところへ連れて行ってもらった。時には〝アイツに電話しておいたから一度、話を聞いて来い〟と言ってくれたりね。すごくありがたかった」
電話をしてくれた相手の中には東映フライヤーズの張本勲や、大洋ホエールズの近藤和彦らがいた。『タイラにはちょうどええわ』。2人とも柔らかい打撃をするお手本のような選手。それを村山は分かっていたのだろう。(敬称略)




