義眼の女子プロレスラー“笑顔の忍術”

女忍者をモチーフにした女子プロレスラーの救世忍者乱丸
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 華やかなコスチュームを身にまとい、リング上で力と技を競い合う女子プロレス。根強いファンに支えられ現在も多くの団体が活動している。そんな女子プロ界にひときわ異彩を放つ覆面レスラーがいる。関西を中心に活動する救世忍者乱丸(きゅうせいにんじゃ・らんまる=フリー)は、様々な“忍術”で会場を爆笑の渦に巻き込む女忍者(くのいち)だ。今や業界の売れっ子となった彼女だが、幼少期に片目を失い、さらに復帰不可能と言われた大病を克服した過去があった。困難を乗り越えて夢をつかんだ、一人の女子レスラーの素顔を追った。

◆幼少期に義眼に…直面した現実

 乱丸は寿司屋の長女として兵庫県尼崎市に誕生。両親の愛情を受けて不自由なく育っていたが、3歳の時に悲劇が訪れる。左目に異常が見つかり、小児がんの一種である「網膜芽細胞腫(もうまくがさいぼうしゅ)」と診断された。すぐに左眼球を摘出し、義眼となった。両親は愛娘の将来を案じたというが、幼少期での出来事だったため本人は「物心ついた時には、これが普通の状態として生活できていた」と、大きな不便はなかったという。小学2年生から空手を始めメキメキと上達。距離感がつかみにくいハンデは構えを工夫するなどして克服し、世界大会に出場するまでの実力をつけていった。

 成長した乱丸は、全日本女子プロレスの堀田祐美子に憧れ、空手をやめてプロレスラーを目指すことを決意。しかしそこで現実を思い知らされることになる。某団体の入団テストで体力審査はクリアしたものの、団体側から義眼ではプロレスは危ない、入団させることはできないと伝えられた。号泣しながら「チャンスを下さい!」と訴えたが受け入れてもらえなかった。この時、初めて自分が義眼であることを恨んだという。

◆人生を変えた一本の電話

 あきらめ切れない乱丸は単身で上京、アニマル浜口氏のジムに寝泊りし、トレーニングを続けながら機会を待つ。1年後、ついに某団体への入団が決まり歓喜するが、待っていたのは殺人的な量の雑用と、先輩レスラーから怒鳴られる日々だった。同期や後輩が次々と去っていく中で耐えていたが、精神的に追い込まれ、約1年半で退団することに。それらが意図的な“いじめ”だった事実を知るのは、ずっと後のことだった。

 失意にまみれていた乱丸を一本の電話が救う。「あんた、まだプロレスやりたいんでしょ。ウチでやってみない?」。声の主は新興団体Jd’(ジェーディー)のトップレスラー・ジャガー横田だった。これが最後のチャンス。消えかけていた夢をもう一度、がむしゃらに追うことを決めた。

 厳しい練習に耐え、乱丸は99年10月に念願のデビュー。義眼を隠すため覆面レスラーとして登場した。身軽さを生かした空中殺法と、空手仕込みの鋭いキックを武器に頭角を現し、04年にはタッグ王者にも輝いた。

◆緊急入院、復帰の可能性は「ゼロ」

 05年にはさらなる可能性を求めて退団、フリーとなった。レスラーとして充実期を迎えていた06年3月、またしても悲劇が乱丸を襲った。真っ赤な血尿が出たため病院へ向かったところ、腎機能障害が急速進行する「急速進行性糸球体腎炎(しきゅうたいじんえん)」と診断され集中治療室に直行。医者からは「復帰は考えないように。プロレスを続けられる可能性はゼロだ」と通告された。

 もう二度とリングには戻れないのか。絶望の淵にあった乱丸を救ったのは、またしてもジャガーだった。見舞いに訪れた恩人から一通の手紙を手渡された。

 『リングで待ってるよ』

 このままでは終われない。ジャガーの言葉を支えに、復帰を目指すことを誓った。

 「ジャガーさんの旦那さん(医師の木下博勝氏)も“良かったね、ちょっと時間かかるけど治る。大丈夫だよ”って言ってくれて。本当は復帰は絶対無理だと思ってたらしいんですけど(笑)。2人のおかげで何が何でも復帰してやる、って決意したんです」

 退院後は歩くだけで息が上がる状態だったが、徐々に体を動かせるようになっていった。血のにじむような努力の末、ついに乱丸は復帰のリングに立つ。緊急入院から2年2カ月後のことだった。

◆コミカルレスラーに転身

 鍛え上げた肉体をぶつけ合うだけがプロレスではない。特に中小団体では、楽しさを取り入れた試合を挟むことで、興行全体のメリハリをつける。復帰後の乱丸は忍者のキャラクターを生かし、試合に“忍術”を取り入れて戦うコミカルレスラーへの転身を決意した。最大の必殺技「忍法カナシバリの術」は、乱丸の掛け声とともにリング上の全選手が動けなくなる荒技だ。客に飽きられぬよう、止まっている選手に攻撃を加えるだけではなく、驚かせたり、位置を入れ替えたり…と、試行錯誤しながらバリエーションを増やしていった。

 突拍子もないスタイルに、当初は客から批判的な目もあった。試合中にヤジを浴びせられることもあった。それでもいつか認められると信じ、選んだ道を貫いた。次第に客の反応も良くなっていくのを感じた。10年6月には、大阪プロレスのコミカルレスラー限定2冠王座を大御所・くいしんぼう仮面から奪取。その時の歓声を、乱丸は今でも忘れられないという。

 「メチャクチャ盛り上がってくれて、ありがたくて感激して。今までやってきたことは無駄じゃなかったんだ、って」

 敗れたくいしんぼう仮面は新王者を「プロレス界の島田珠代や!」と称えた。いつしか乱丸は、吉本新喜劇の大女優を引き合いに出されるほどの存在になっていた。

◆自分の体験を伝えたい

 高校時代の担任の薦めで、2年前から講演活動を始めた。対象の多くは児童や中学・高校の生徒だ。

 「以前ジャガーさんに“あんたはいつか人に伝える立場になる人間なのよ”って言われたことがあったんです。その時は深く考えなかったんですけど、講演の話が来た時に、もしかしたらその時が来たのかな、と思ったんです」

 講演の際、乱丸は覆面レスラーの“命”とも言うべきマスクを躊躇なく脱ぎ捨てる。「絶対にマスクをい脱いだほうが伝わるから」。片目を失ったこと、大きな壁に直面しながらもプロレスラーを目指したこと、復帰の可能性はゼロと言われた病気のこと、それでも信じて努力を続けることでリングに戻ってこれたこと。「眠たくなるような講演会にはしたくない」。思春期の若者たちに全てをさらけ出し、熱く熱く語りかける。

 講演会の後には、生徒たちから多くのメッセージが届く。中には「今の自分には夢がない」「目標が本当に実現できるかわからない」と、将来への不安を吐露したものもある。乱丸はそのひとつひとつに目を通し、真摯に回答するという。

 「今、夢がなくても全然いいじゃん。夢や目標なんていつ出てくるかわからない。60歳になってから出てくるかもわからない。いざ夢ができたその時に、私が話したことを少しでも思い出してくれればいい。目標が大きくて不安になるのも当たり前。でも動き出さなきゃ勝ち目はない。夢に向かって突き進んでほしい、って。最後には必ず“もし夢が叶ったら教えてな”と付け加えるんです」

 乱丸の講演は“伝わりやすい”と評判を呼び、毎月のようにオファーが届いているという。

◆「私ってラッキー」

 13年12月22日、道頓堀アリーナで8回目の自主興行となる「乱丸フェスタ」を開催した。会場は札止めの超満員、試合だけでなく選手の私服ファッションショーなどで盛り上がった。この日の参戦選手は異例の35人。プロレスを通じて築いた絆は、何ものにも代えがたい宝物だ。「お客さん、出ている選手やスタッフ、もちろん私も含めて…みんなが笑顔になる興行を続けていきたい」。これまで自主興行は大阪で開催してきたが、来年2月には東京初進出が決定している。

 数々の困難を乗り越えて、たどり着いた現在。その口調に悲壮感は微塵もない。

 「片目が義眼になったり、腎臓の病気になったり、それでもプロレスラー続けたり…親にしたら絶対にイヤだったと思うけど、そんな経験があったからこそ今、講演会もさせてもらって、自分の経験を伝えることができる。入団テストで落とされた時は義眼を恨んだりしたけれど、スンナリ通ってたら面白くも何ともないでしょ(笑)。タイミング良く助けてくれた人もいたし、私ってラッキーなんですよ。考え方ひとつですね。次、生まれ変わるとしても、健康な普通の人に生まれたいとかはあまり思わない。特殊やったら目立てるし、楽しいこともあったしね」

 あの時の涙があるから今の自分がある。苦しかった過去を糧にして…義眼の女忍者は今日も、人々を笑顔にする“忍術”を磨き続けている。

(デイリースポーツ・平尾 亮)

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