18年前に私は見た!猪木式外交の原点

 日本維新の会のアントニオ猪木参院議員が参院議員運営委員会理事会が許可しないにもかかわらず北朝鮮行きを決行、しかも現地に事務所まで設立してしまった。

 猪木氏は北朝鮮とは、前回参院議員であった1994年に初訪問して以来のつながりがあり、今回が27度目の渡航となる。

 95年には、平壌で行われた「平和のための平壌国際体育・文化祝典」に参加し、プロレス興行を行った。その際、私は取材のために同行し、現地で忘れられない6日間を送った。

 通訳と称する監視役に付きまとわれ、部屋や電話が盗聴されていることは素人でも分かる状態で、心のざわつく6日間を過ごした。

 その時の猪木氏は、プロレスラー・アントニオ猪木としての渡航だった。名古屋の小牧空港発の特別便で、私たち報道陣は猪木氏とともに直接、平壌の高麗空港に飛んだ。

 出発時の空港で会見が設定されただけで、滞在中に猪木氏との接触はほとんどなかった。ヘリに乗って力道山の墓参りに行ったという噂を聞いた程度だった。

 余談ではあるが、その6日間の滞在中に同行レスラーの佐々木健介と北斗晶が付き合い始め、帰国して1カ月後には結婚した。そんなラブストーリーが同時進行していたとは、当時はもちろんまるで知らなかった。

 そして滞在5日目の4月29日、アントニオ猪木とリック・フレアーの試合を取材することになる。

 車で会場の綾羅島メーデー・スタジアムへ向かう途中、車窓から、行進するかのように道をひたすら歩く大群衆を見た。スタジアムの何キロも手前からだから、着くまでに1時間以上歩くのだろう。

 その日の観衆は、アリーナ席も含めて19万人であったと、後で発表があった。動員されたそのすべての人たちが、生まれて初めてのプロレス観戦だったのに違いない。

 スタジアムでの記者席はアリーナの中央に据えられたマットから10メートルほど離れた位置に設けられていた。といってもパイプ椅子が置いてあるだけで机はなく、周囲の客席と隔てるものは何もない。

 近くの席に座っていた美女が、三脚に据えられた撮影機でずっとムービー撮影されていた。通訳に尋ねると、女性は北朝鮮では有名な映画女優で、これだけの観客が集まっている機会をとらえて映画撮影を行っているのだとか。

 マットではプロレスの試合が進行した。私はプロレス担当ではなく、担当記者が北朝鮮行きを嫌がったため珍しいもの見たさで手を上げただけだから、プロレスの技などまるで分からない。他社の若い記者を手なずけ、隣に座らせて“解説”付きで観戦した。

 8試合組まれた最後のメーンイベントが猪木戦だった。生のプロレスを見るのは3回目だったが、その一戦の迫力は解説を待つまでもなく伝わってきた。猪木、フレアーとも一世一代のプロレスを演じたのではないか。両者が休むことなく技を応酬し、約10分で猪木がフレアーをフォールした。

 後にフレアーは「試合中ふと顔を上げると、どこまで観客が入っているかわからないほどの数だった」と振り返っている。その数が醸し出す異様な雰囲気は、直視するのが怖いほどだった。

 試合が終わった。猪木は英雄となってアリーナを進む。スタンドの階段を上がって貴賓席へ向かった。

 スポーツの試合の記事に、談話がなければ締まらない。私は人波をかきわけて追った。他社の記者は誰も着いて来なかった。

 スタンド最上段の貴賓席に座った猪木の後方、約7、8メートル離れた物陰に半身を隠して、私はしゃがんだ。猪木の左右には、政府や軍の高官らしき人たちが居並んでいる。いま思えば、私は射殺されてもおかしくない状況だった。

 何人かのスピーチが終わり、猪木が立ち上がって両腕を振り上げると「マンセー(万歳)!」と叫んだ。19万人が唱和して、スタンドが震えた。

 傍観していても鳥肌が立つようなその雰囲気を、再び参院議員となった猪木氏は今も忘れていないはずだ。大衆が指一本で動く独裁国家のありようを。

 紛争地帯や日本の敵性国家に単身乗り込む政治家は、普通ならいない。しかし、猪木氏はそこで得られるものを知っている。誰も行かないからこそ得られるプレゼンスの大きさを。

 ちなみに「マンセー」を叫んですぐ、猪木氏は後方に駐車してあった車に向かった。後を追った私は何かひと言だけ質問し、一つだけコメントを得たのだが、それが何であったかはもう覚えていない。

(デイリースポーツ・岡本清)

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