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「ジローズ」森下悦伸さん

 ジローズ結成時の思い出を語る森下悦伸さん=神戸市中央区元町通・鉄板焼き「おくの」(撮影・田中太一)
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 1970年代初めに「戦争を知らない子供たち」が大ヒットしたフォークデュオ「ジローズ」のメンバーだった森下悦伸さん(65)が、今年6月に40年間勤めたラジオ関西を退社した。学生時代に1年限定でジローズの森下次郎として華やかに活動した後は、ラジオの世界へ。さらに「今は名刺も持たない自由人」と語り、第3の人生を楽しもうとする森下さんが、ジローズ時代の秘話や、ラジオ局時代の“思わぬ戦い”、次なる夢への思いを明かした。

  ◇    ◇

 ‐6月にラジオ関西を退職されて3カ月。近況はいかがですか。

 「やっと自由人になれました。ずっとなりたかったし謳歌(おうか)してます。今はスポーツジムが僕のサンクチュアリです」

 ‐ジローズの話をお伺いできれば。音楽を始めたのはいつごろですか。

 「高校時に来日したビーチ・ボーイズのコンサートを見にいったり、ベンチャーズにあこがれてギターを買ったり。皆が音楽にかぶれていく中、僕もご多分に漏れず。野球部に所属してたので、本格的にギターを弾きだしたのは予備校でギターのうまい男に教えてもらってからです」

 ◆ジローズ

 ‐同志社大学に進学。

 「フォークソングのクラブに入り、そこからは音楽にドップリ。当時の京都御所は、道ばたに2、3メートルおきにバンドが並んでいて、雑誌に写真も載ったほど。路上ライブのはしりですかね」

 ‐ジローズを組んだ杉田二郎さんとはどんな出会いでしたか。

 「二郎さんはすでに有名で、新たにバンドを作りたいと思っていた時期。大学を超えたフォーク団体の会長さんが、二郎さんに紹介してくれて、京都の喫茶店でヒョウ柄パンツをはいた二郎さんと会いましてね。気に入ってくれて、一緒にバンドせえへんかとね」

 ‐すぐにOKを出したのですか。

 「当時付き合ってた女性に、今の妻なんですが『東京いったり、さみしい』と言われたりして、1回は断ったんですが、二郎さんに『もう1回考えへんか』と言われ、1年だけ期限つけてやることに。それがジローズです。本当は当時一緒にバンドをやってたメンバーもと思ったんですが、二郎さんが『人数が多いと結構、金かかるんや…』と言うので(笑)」

 ‐プロになることに戸惑いはなかったですか。

 「当時は今と違って、学生がアマチュアの延長でプロになるのがはやってて、それが格好よかった。一大決心でというのはなかったですね」

 ‐『戦争を知らない子供たち』が大ヒット。一気に世界が変わったのではないですか。

 「関西はB面の『愛とあなたのために』が先に試聴版とかで火がついて、そして『戦争‐』が出て全国的にドカーンと。あれよあれよ、あらら、という感じやったですね。でも、当時の僕はニブかったのか変わった感じはなかったですが、今から思えば、たいした人気もんでしたね。沖縄から北海道まで1年間ツアーして、どこも満員、連戦連勝でしたから。若い女性もいっぱいで、今の若い人に、見せてあげたかったなあ(笑)」

 ‐活動の延長は考えなかったのですか。

 「1年たって二郎さんに聞かれたので、はっきり『やめようと思います』と。二郎さんも『そうか』と。二郎さんは『これからもうかんのにな』とも言ってましたけどね。ギターで食っていきたいとも思ってなくて、普通に就職してという気持ちの方が強かったのかな。これはこれで終わりと整理付けてたんでね」

 ◆ラジオ関西

 ‐ラジオ関西に入社しプロデュースする側に回られました。

 「興味はあったんです。当時のラジオ関西は音楽局として、洋楽とかのボリュームも大きくて音楽に対するアピールが強かった。当時の文化は全部ラジオから発信されてたし、自分の感性を電波に乗っけて伝えられたらいいなと」

 ‐制作畑を進んだ。

 「最初は朝のワイド番組や電リクの選曲なども任されました。出演交渉から弁当の手配まで全部自分でやる、おもしろい時代だったかな」

 ‐順調でしたか。

 「乗れなかったですね。実は入社1年目に腰を痛め、ヘルニアの手術で3カ月休職。そこから人生谷の時期でした。仕事はしましたけど、体を甘やかしたら腰に負ける、人生だめになると思いテニスを始めた。関西社会人大会でダブルスでベスト4に入ったりもしたんですが、どこか落ち込んでて。40歳の時に宮古島トライアスロンに出ようと決心したんです」

 ‐多少の心得はあったのですか。

 「全然でしたが腰への挑戦。土日は毎週20キロ走り、平日も2、3キロ泳いで、人生かけてやりました。それで42歳の時に出て完走。13時間24分。2回目の45歳の時は時間切れで、3回目の49歳の時はクリアして2勝1敗。この勝ち越しがね、自信になって50歳以降の人生にものすごい力を与えてくれたんです」

 ‐仕事の質も変わりましたか。

 「人との付き合いも濃くなった。FM局が音楽に特化してきて、AMラジオは徐々に音楽から離れ、地域密着で身の回りの情報をどれだけ伝えられるかが求めらるようになった。僕の出身母体からするとさみしいけど、自分はこれしかできませんではダメ。宮古島の後はAMラジオのためにという気持ちがより強くなったのも事実です」

 ‐ジローズ時代の親交も仕事にいきましたか。

 「ジローズやってた当時のフォークシンガーは、皆バリバリやってますから。南こうせつさんや、小室等さん、小田和正さんもそう。番組に来てもらったり、仕事絡みでも助けてもらい、ありがたかったです」

 ‐思い出はたくさんあるでしょうね。

 「ばんばん(ばんばひろふみ)とオタカ(増井孝子さん)と始めた番組が、今も金曜朝9時の番組(ラジオ・DE・しょー!)として続いてることもうれしいですね。阪神・淡路大震災の95年の4月にスタートした時、3人で『本当に楽しい時は笑おうぜ』と始めたんですが、不謹慎だという苦情が来たら…と不安があった。でも激励の電話はあれど、苦情は1本もなくて。正解でした」

 ◆自由人

 ‐先日の退職時のお別れ会では、杉田二郎さんから『また一緒に』との誘いもありました。

 「もうこの年でギターケース持って移動はできませんよ(笑)。大々的にやるんは恥ずかしいしね。例えば北海道で50人が集まってるから来てとか、なつかしいなと思ってもらえる形であれば、喜んでいきますよ」

 ‐『戦争‐』は当時反戦歌と位置づけられましたが、当時を知らない世代も知っている曲です。

 「あの歌の持つ総合力かなと。時代を超えても、当時の社会に与えた印象とは違った形で残ってるんだろうし。歌詞はそんなに挑戦的でもない。2番の『髪の毛が長い』とかは恥ずかしい気もするけど、大事なのは当時の新鮮な若い気持ちで歌うことなのかな」

 ‐ギターは今でも弾いているのですか。

 「ジローズ組む時に、東京の楽器屋で亡くなった加藤和彦さんにセレクトしてもらったギブソンハミングバードは、今もリビングに飾ってます。でも弦は何年も替えてないし、触ってすぐに戻す程度ですね」

 ‐次なる目標は定まってますか。

 「もう1回、宮古島に出たかったけど年齢制限があって…。それに代わる何か、100キロマラソンかなと思ったりしたものの、50歳以降は酒ばっかり飲んでたので、退職していざ運動を始めるとめっちゃしんどい(笑)。どこか燃えてこなくてね。今は毎日走って、基礎体力つけてるところ。またどこかでスイッチを入れたいですね」

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