日本女子野球協会 大倉孝一理事長

 女子硬式野球の発展に尽力する大倉孝一・日本女子野球協会理事長
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 未開の地を拓(ひら)く‐。「マドンナジャパン」と聞いても、ピンと来ない人が多数だろう。女子硬式野球の日本代表チームに、2008年からつけられた通称だ。その統括団体・日本女子野球協会の理事長、大倉孝一氏(50)を今回、取り上げる。ナショナルチーム監督も5年間務め、女子野球ワールドカップの連覇も果たした。急増する女子選手に対し、受け皿となるチーム、しっかりした組織づくり、グラウンド環境に至るまで山積する課題をどうさばいていくのか。かじ取りをゆだねられた大倉氏の人物像に迫る。

  ◇   ◇

 ‐現状から伺います。2年に一度のワールドカップで、マドンナジャパンは3連覇中です。大変な偉業なのに、例えば女子サッカーほどの盛り上がりが見られません

 「なでしこジャパンは一昨年のW杯がテレビ放映されたことが引き金となり、人気に火がつきました。大きな大会でメディアに注目されたのですが、その時点で女子サッカーは組織が成熟していたため、次のステップに行けました」

 ‐女子野球はそうではなかった?

 「なかった、というより、まだスポットライトを浴びていません。ただ、今、そうなってもこちら側の準備が足りない。いつか注目された時に、慌てずマスコミにアピールし続けられる組織作りを急いでいるところです」

 ‐チャンスをうかがっている

 「そうです。そしてそれが、今年と、4連覇のかかるW杯が予定されている来年。この2年間が非常に大切と受け止めています」

 ‐大倉さんは捕手として、駒大から日本鋼管(現JFE)という野球の名門を渡り歩き、コーチとしてはプロも輩出してます。そこから女子野球へ力を注ぐようになったいきさつは何でしょうか

 「僕は2000年から駒大のコーチをしていたのですが、たまたま01年、女子野球の代表セレクションが駒大のグラウンドで行われていて、トレーナーの勉強もしていたのでアップやノックの手伝いを頼まれたんですね。2日間だったのですが、そこで『何だ、コイツらは』という衝撃を受けたんです」

 ‐衝撃の内容は?

 「その時、150人来てました。当時の女子硬式野球人口は日本全体で300人程度。その中で、自信のある子。そしてソフトボール、軟式野球出身者の合計が150人で、中には自費でアメリカ留学している子もいました」

 ‐野球に文字通り飢えていた

 「そうです。ブルペンにいくと、これも自腹でキャッチャー道具を買ったという女の子がいるんですよ。僕は高校から大学、社会人と“厳しい野球”に身を置いていたつもりですが、僕もキャッチャーで、その道具を自費で買ったことなんてありません。彼女たちは、男子のように環境をそろえてもらっていない中で、自分で作っていこうとしていたんです」

 ‐ある意味、男子より厳しい野球があることを発見したんですね

 「はい。もう一つ、教わったことがありました。コーチ時代に、プロ野球選手を出したこともありますが、僕は心のどこかで、そのプロ一年生たちから『大倉さんに教わった』というような声を聞きたかった。そんな見返りを求めるような、“しょぼい”自分の、器の小ささに気づくことができたんです」

 ‐純粋に、選手たちのためのコーチ、という風に思えるようになったんですね

 「彼女たちのために、何ができるか。損得抜きに考えられました。それから全日本のコーチとなるんですが、教える内容はあいさつ、整列、ユニホームの着方というレベルです。でも、両方が一生懸命ですから、できないことがあっても、腹も立ちません」

 ‐相手は女性、ということで、これまでとは勝手が違う部分もあったんじゃないですか

 「ナショナルチームということは、地元に戻ればみんな“親分”です。一方で、女性でもあります。まずは地域、スポンサー、スタッフら、周囲があって、代表チームが運営できるということを分かってもらう。その上で、年ごろですから例えば髪を染めて来る子もいます。ただ怒るだけでは、頭で分かっても彼女の体がついてこない。だから『茶髪、きれいやけど、ここでは通用せんよ。おれも染めたかったけど、そういう場所じゃないからね』といった感じで、頭でも気持ちでも理解してもらって、最終的に動いてもらう、の繰り返しです」

 ‐うまくご自分を上げたり下げたりなさってますね

 「僕は大学時代と、社会人6年目までの10年間、控え選手でした。28歳でようやくレギュラーになれたんですね。体も小さかったし、どう生きるか、どう貢献するか、人より余分に考えた面はありました。コミュニケーションでも、戦略、戦術面でもその経験は役立っているかも知れません」

 ‐人より、の点で言うと、大倉さんはスポーツトレーナーの勉強もされています

 「コーチングにあたって、技術として『こうだろうな』と思って指導してきたことを、生理学、解剖学的な見地から裏付けが欲しかったんです」

 ‐選手にも伝わりやすいように思います

 「そうですね。『球を運ぶ』とか『下半身を使って低く』とか『ためる』といった、古くからの野球用語はイメージしづらいから、反応できないんですね。それよりも『こうすればこうなる』の、『こうすれば』の部分を論理的に説明すれば、最初は半信半疑でも、体は勝手に動きますから、選手からも『分かりやすい』と言ってもらえます」

 ‐06年からは代表監督に就任、台湾のW杯で2位、08年の松山と10年のベネズエラで連覇して、監督から退きましたね

 「松山は日本でやるが故に、開催にこぎ着けた周囲の苦労も分かった。久しぶりに『どうしても勝たなきゃいかん』という感覚があって、勝った時は涙が止まりませんでした。しかも台湾から続けて負けるという失敗を繰り返せない、という意地もありましたから」

 ‐ベネズエラでは発砲事件もありました

 「チームとしては勝てる、という準備はできあがっていたのですが、さすがに血の気が引きました。軍からの流れ弾で、事件ではなく事故、という説明でした。帰国する選択肢ももちろんありましたが、選手の『連覇して帰りたい』という希望も受け、親御さんの了解を全員得られれば、という条件で再開を了承しました」

 ‐そこでも見事、優勝しました

 「それが終わった10月の会議で、理事長就任の話をいただきました。女子が野球をできる環境作りや組織作り、女子硬式野球の普及というものが常に頭にありましたから、お引き受けしました」

 ‐監督として培ってきたものを、理事長として開花させようと

 「監督の仕事としては、代表チームに伝えてきたことを、彼女らが自分のチームに戻った時に還元してもらいたかったのですが、つながっているという手応えはあります。理事長としては、そのネットワークをより強固なものにしたい」

 ‐女子硬式野球の選手が、数年で300人から1500人に増えたと聞きました

 「チームで言えば、プロが4チーム、大学が4つ、専門学校が3つ、高校が10、クラブチームが20、というところでしょうか」

 ‐女子野球の人口増加に、受け皿が追い着かない?

 「私も、環太平洋大学に来年、女子硬式野球部ができますので、そこでの指導も行うつもりです。それでも足りないくらい、増えてますね」

 ‐潜在的にはどれほどでしょうか

 「例えば高校野球は4000校以上ありますが、女子もその半分くらいはいける可能性があります」

 ‐そうなると、体育会系のクラブ活動の主流ですね

 「いいえ、そういう考えはありません。県大会や全国大会、国体の種目になればいいな、とは思いますが、少なくとも能力の高い選手を競技間で“取った、取られた”という程度の低い争いに巻き込みたくない。ソフトボールもテニスもバスケも、サッカーも。いろんな選択肢の一つに、硬式野球もあるよ、という形を作りたいんです」

 ‐選手より指導者や組織の上層部が“偉い”競技は多々見受けられます

 「そうです。主体はあくまで選手。彼女たちに選択を委ねればいいんです。そうした組織作りができれば、僕は現場に戻って、選手たちと戯れたいですね」

 大倉孝一(おおくら・こういち)1962年9月17日生まれ、岡山県倉敷市出身。玉島商から駒沢大、日本鋼管(NKK、現JFE)で捕手として活躍。96年からNKKコーチ、00年から駒大コーチを経て01年、女子野球日本代表チームコーチ、06年から監督、10年から日本女子野球協会理事長。SEB株式会社代表取締役。家族は妻と1男1女。

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