【ヤマヒロのぴかッと金曜日】阪神・淡路大震災から30年 それぞれが「できることをやっていく」

 30年前。地震発生とともに阪神間を駆けずり回った日々。報道はこれでいいんだろうか?もっと他に伝えるべきことがあるんじゃないか?自問自答しながら月日が流れていく。私にとっても初めての体験だった。正解など誰にも分からない。そんな私に『悩み考える時間があるなら、とことん現場を歩く』。そう行動で示してくれた多くの人たちがいる。

 歴史学者であり、国際政治学者の五百旗頭真(いおきべ・まこと)さんに初めてお会いしたのは1993年。衆議院選挙の開票特番にご出演いただいた。その2年後に阪神大震災が起きた。ご自宅も勤務していた神戸大学も被災、教え子も命を落とした。

 その年の夏、神戸モザイクの特設スタジオでの参議院選挙の開票特番でもご一緒した。選挙結果から、やがて震災の話になるとしばらく間をおき、まだ灯りの戻らない神戸の街を見ながら「とにかく私たちにできることをやっていくだけです」と静かに、力強く話したその言葉がとても印象深かった。

 その後の、防災・復興への関わりについてはご承知のとおり。防衛大学校長だった13年3月の東日本大震災。発生の翌月には政府の復興構想会議議長に就任する。私がスタジオを離れ、1カ月間、東北から伝え続けたのは「できることをやっていく」という五百旗頭さんの言葉がベースにあったからだが、その話は3月にまた詳しく。

 五百旗頭さんは昨年3月『ひょうご震災記念21世紀研究機構』で執務中に急死するまで、災害に強い社会の実現に向けて研究を続けられた。今月15日付の読売新聞の記事によれば、亡くなる2カ月前に起きた能登半島地震で、政府の対応が後手に回ったと憤り、「阪神の経験が生かされていない。どうしてなのか」と怒っていたそうだ。

 確かに、この国の『公助』に対する姿勢は30年前も今も何ら変わっていない。長らく国家プロジェクトをけん引した本人からすればじくじたる思いではなかったか。『震災で生き残った者の務めは、災害に強い社会をつくることだと思う』とのご遺志を胸に行動していきたいと思う。

 一方で、市井の人々の中にも長年、力を尽くされた方が数多くいる。その一人、市民団体『よろず相談室』の元代表で高校教師だった牧秀一さん。震災直後は必要な情報を盛り込んだ手作りの新聞を配ってまわり、高校へは避難所から通った。孤独死や自殺の問題が表面化すると仮設住宅、その後の災害公営住宅への訪問を続け、数多くの被災者の声に耳を傾けてきた。『共助』の精神で30年。牧さんらボランティアが避難所で聞き取った話をつづった日誌や、仮設、公営住宅への訪問記録などの貴重な資料は、震災の教訓を伝える施設『人と防災未来センター』(神戸市)で見ることができる。

 それぞれが「できることをやっていく」。これからもその精神を受け継いでいきたい。(元関西テレビアナウンサー)

 ◆山本 浩之(やまもと・ひろゆき)1962年3月16日生まれ。大阪府出身。龍谷大学法学部卒業後、関西テレビにアナウンサーとして入社。スポーツ、情報、報道番組など幅広く活躍するが、2013年に退社。その後はフリーとなり、24年4月からMBSラジオで「ヤマヒロのぴかッとモーニング」(月~金曜日・8~10時)などを担当する。趣味は家庭菜園、ギターなど。

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