弘田三枝子さん急死 「人形の家」「ヴァケーション」紅白8回“パンチのミコちゃん”

 「人形の家」や「ヴァケーション」などの大ヒット曲で知られ、迫力あるボーカルで“パンチのミコちゃん”、“ダイナマイト・ミコ”などの異名を取った歌手の弘田三枝子(ひろた・みえこ、本名竹永三枝子=たけなが・みえこ)さんが21日午後10時31分、心不全のため千葉県内の病院で死去していたことが27日、分かった。73歳。東京都出身。26日に親族・関係者で密葬を行った。

 関係者によると、最近の弘田さんは都内と千葉県内の自宅を行き来しており、20日に千葉の自宅で姉といた時に倒れ、緊急搬送された。持病はなく、亡くなる直前まで元気だった。ひつぎの中の弘田さんは「笑顔で、苦しんだ様子はなかった」(参列者)という。

 近年は神社巡りが趣味で「今年はお伊勢参りに行きたい」と、新型コロナウイルスが落ち着いたら伊勢神宮に参拝するつもりだったが、かなわなかった。

 小学生の頃から米軍キャンプで歌い、ジャズ歌手のティーブ釜萢に師事。14歳の1961年11月、シングル「子供ぢゃないの/悲しき片思い」でデビューし、「ヴァケーション」などカバーポップスのヒットを連発した。

 紅白歌合戦には8回出場。65年には日本人で初めて米ニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演した。デビュー当時、デイリースポーツの取材に「英語の発音なんて難しく考えないで、すらすらっと頭に入れちゃうの。曲の内容を理解するのはムードでやっちゃう」と答えている。

 一時人気が低迷したが、69年に20キロの減量でイメチェン。「人形の家」を大ヒットさせて日本レコード大賞歌唱賞を受賞、カムバックした。ダイエット本「ミコのカロリーBOOK」(70年)は150万部のべストセラーとなった。米歌手エラ・フィッツジェラルドに「養女にしたい」と言わしめた歌唱力で、70年代にはジャズ歌手として活躍した。

 後進への影響も大きく、サザンオールスターズの桑田佳祐はアルバム「綺麗」(83年)に弘田さんがテーマの「MICO」を収録。ピチカート・ファイヴの小西康陽はアルバム「TOKYO 27:00」(99年)をプロデュースした。

 最後のステージは昨年12月。デビュー60年の今年は記念盤や記念コンサートを企画していたが新型コロナで活動ができず、「来年に持ち越しね」と話していたという。6月15日にYouTube「日本歌手協会チャンネル」の「コロナに負けるな リレー歌謡祭第46弾」に電話出演、「早く皆さんにお会いしたい」と話したのが最後の肉声となった。

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