【29】高校野球の“ゆりかご大会”に不思議な優勝旗 高校野球夜明け前
「日本高野連理事・田名部和裕 僕と高校野球の50年」
全国高校野球選手権大会は大正4年(1915年)8月18日に大阪・豊中グラウンドで始まり、今年で100年を迎える。
水野兄弟商会(現ミズノ(株))創業者の水野利八さん(昭和45年に85歳で逝去)は、大正2年から関西学生連合野球大会を主催した。明治30年代に三高野球部の試合に熱中したことが契機になったという。
当時早稲田大の学生だった元日本高野連会長の佐伯達夫さんも大会の運営に一役買っていた。
この大会が第3回を迎えた大正4年、大阪朝日新聞社が野球害毒論から一転、村山龍平社長の英断で「青少年を、野球を通じて正しく育てる」という理念で全国中等学校優勝野球大会の開催を決めた。
当時の朝日新聞社社会課の田村省三記者は、水野さんを訪ね、新たな大会に協力を求めた。
水野さんは元々「一民間企業でやるのは良くない」と考えていたらしく、あっさり譲歩したという。
そして翌5年から開催時期を春に移行、大正13年まで続けられた。毎日新聞社が同年、名古屋で全国選抜中等学校野球大会を始めた。その役割を終えたと、この年で幕を閉じた。
この最後の第12回大会で優勝した松山商は、翌日、名古屋の八事へ向かい選抜大会に出場している。つまり関西学生連合野球大会は、夏と春の全国大会の前身となってその将来を託した。
この高校野球黎明期の球史をたどっていると不思議な写真に出くわした。濃紺の地に金鷲とボールをあしらった優勝旗だが大きな旗の中にもう一つ旗がある。二重になっている。調べてみると第6回大会を迎えたころ、各地で野球大会ができ、優勝旗も立派になっているので作りかえましょうと提案する社員に「この優勝旗にはこれまでの歴史があるんや、ここで作りかえたらこれまで出場した選手にすまんやないか」と水野さんは応じなかった。結局外側に絹地をつけ足して二重に縁どりすることになった。
晩年、水野さんが四国出張の折に「うちの最後の優勝旗があるかなぁ」と松山商業を訪ねた。大切に保管されている優勝旗を懐かしそうにしばし抱きしめ、ホロリと涙されたという話も伝わっている。
佐伯さんは弔辞で「高校野球の続く限り、永遠に霊魂この世に踏み止まって、春夏の高校野球大会には必ず甲子園球場の空より、高校野球の真髄を余すところなく発揮し、精魂を尽くして戦う若人の美しい姿を見守っていただきたい」と捧げた。
高校野球100年、忘れてはならないお一人だ。(一部「水野利八物語」参照)