【25】アメリカへ“逆輸入”されたベーブ・ルース記念碑

 「日本高野連理事・田名部和裕 僕と高校野球の50年」

 あの偉大なベーブ・ルースと日本の野球界との逸話をお伝えする。

 戦前の第9回センバツ大会(1932年)に毎日新聞社の働きかけで「ベーブ・ルース賞」が設けられ、最強長打者にルースがサインした記念牌が贈られることになった。

 受賞したのはハワイ生まれの平安中学本田親喜投手で、大会第1日に中京商・吉田正男投手から大会初本塁打を放って受賞した。

 本田さんは慶応大を経て社会人野球の渉外担当として“チック・本田”と親しまれ国際関係に活躍された。

 偶然にも息子さんの親嘉君は僕の小学校時代の同級生で、後年そのことが分かった。

 ルースはその2年後の34年に全米オールスターの一員として来日、11月24、25日に阪神甲子園球場でプレーしている。この時のショーマンシップぶりが、2年後の大阪タイガース(現阪神タイガース)誕生の契機になったことはよく知られている。

 阪神電鉄は、ルースが他界した翌年の49年2月、甲子園球場にブロンズ製のレリーフをはめ込んだ記念碑を設置した。進駐軍の関係者ら多くが参加して除幕式が行われた。

 時代が下って、2005年にルースの生家があったメリーランド州ボルチモアに新たに総合スポーツ記念館が建設される話が出ていた。

 ノンフィクション作家の佐山和夫さんは、ルースが晩年日本ツアーを大変思い出深い旅だったとしており、記念館関係者から是非日本にちなんだ展示品がないかと相談を受けていた。

 佐山さんに浮かんだのはこの甲子園のルースの記念碑だった。縦横とも90センチのレリーフ一杯にルースの横顔が描かれている。佐山さんは、「その芸術性は圧倒的で、アメリカのファンにぜひ見せてあげたい」と僕に相談があった。

 早速、当時の球場長の揚塩健治さん(現阪神不動産(株)代表取締役社長)に相談したところ、社内の了解を取り付けて下さり、阪神電鉄開業百周年と阪神タイガース創立70周年記念事業としてレプリカを贈ることになり、揚塩さんと2人でこのレリーフ制作者で彫刻家の松岡阜(ゆたか)さんに複製のお願いに伺った。

 その際どうしてバットを持ったルースは帽子をかぶっていないかを質問した。松岡さんは「ルースの表情を表現するためには帽子はない方が良い」と断じられた。松岡さんは小学生当時、ルースの試合を父君と観戦されていた。不思議な縁だ。

 皆さん、甲子園に行かれたら一塁側横の公園にあるルースの記念碑を是非鑑賞してください。

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