Y編集局次長が独断で選んだ「俺だけの南海ホークス」+α

「阪急、近鉄ときたら南海もやらんかい」という編集局次長の恫喝、もとい提案を受け「南海まとめ」を作ろうとしたら「俺がやる」と言われたのでお任せしました。(敬称略)

公開日:2017.5.12

4月27日のプロ野球「KANSAI CLASSIC 2017」で復刻ユニを着て戦ったオリックス-ソフトバンク戦。これを受けて当デイリーまとめではオリックスの前身・阪急と近鉄を取り上げたが、これに黙っていられない男がいた。
「南海もやらんかい」。筋金入りの南海党・Y編集局次長だ。そういえば4・27当日、会社にいないと思ったら「当然見に行ってた」のだとか。64年生まれで幼少時から大阪球場(ナンバ球場と呼んでいたらしい)に通いつめたY局次長は、「大阪球場で南海戦士を取材する」という夢を持ってデイリーに入社した88年に南海身売りという悲劇を味わった。
 「俺は本当は南海担当になりたかったんや!」
叶わなかった少年時代の夢を今なお抱き続ける男の心の叫び、ぜひぜひ聞いておくんなまし。※今回の見出し部分は、ほぼY局次長セレクトになっております。

【監督=鶴岡一人】「親分」といえばこのお方。戦争経験者ならではの迫力があった。

鶴岡一人

終戦翌年の1946年に復員し、選手兼任監督に。就任1年目でいきなり優勝。選手としても打点王とMVPに輝く。63年から監督に専念し、Y編集局次長が生まれた64年には阪神との“御堂筋シリーズ”を制して日本一に。南海を率いて23年で優勝11回・日本一2回。監督通算1773勝は歴代1位。漫画「グラゼニ」のタイトルの元ネタ「グラウンドには銭が落ちている」という名言で選手を鼓舞し鍛え上げた。。

【投手=杉浦忠】大阪球場最後の試合「行ってまいります」のあいさつが耳に残る

近鉄との地元最終戦を終え球団旗を持ち大阪球場を一周し、ファンに別れを告げる南海ホークスの選手。手を振るのは杉浦監督=1988(昭和63)年10月15日
杉浦忠

立教大から1958(昭和33)年に入団し、いきなり開幕投手を務める。サイドスローから浮き上がるような直球と大きく横に曲がるカーブで27勝を挙げて新人王。2年目は38勝で優勝に貢献しMVP。日本シリーズでは大学時代のチームメイト長嶋茂雄擁する巨人を4連投4連勝で破って日本一に輝く。3年目の60年には31勝。61年には史上最速の3年1カ月で通算100勝を達成するが、血行障害に悩まされて20勝に終わる。以後ペースは落ちていき70年に通算187勝で引退した。85年に南海監督就任。88年に球団が身売りしたため、南海ホークス最後の監督であり、福岡ダイエーホークス初代監督となる。95年殿堂入り。01年没。

【投手=スタンカ】スタンカかバッキーか。御堂筋を挟んで青い目の決闘

スタンカ

60年入団。64年には26勝を挙げシーズンMVP。外国人初の沢村賞バッキーらを擁した阪神との“御堂筋(※)シリーズ”でも、3勝を挙げてMVPと日本一に貢献した。長身から繰り出す思い速球が武器だったが、一発を浴びること多く「スカタン」と野次られることもあった。(※…親会社の南海難波駅と阪神梅田駅を結ぶ大阪市内の道路)

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