「アイドル」の苦悩…バンビ東邦・坂本

 甲子園には「怪物」、「スター」とは別に「アイドル」というカテゴリーがある。弱くてはいけない。でも強すぎてもいけない。女性の心をくすぐるマスクと、あと一歩で大旗を逃すストーリー性。1977(昭和52)年夏の第59回で出現したのが、東邦(愛知)の1年生エース・坂本佳一だ。「バンビ」と呼ばれた少年の快投と、その後の苦悩を振り返る。

 あれから38年。坂本の人生は、15歳の夏に激変した。夏の決勝戦では史上初となるサヨナラ本塁打を浴びた。童顔、投手、そして惜敗。アイドル球児となる条件は、すべてそろっていた。ほどなく人気が沸騰した。首が長いことからついた「バンビ」のニックネームだが、実は大会終了後に定着した。それからの坂本は、気が休まることがなかったという。

 例えば、練習を終えて帰宅する際の地下鉄。つかの間の休息時間も、坂本にとってはストレスのたまる時間だった。

 「疲れて寝ていると『大きなバッグを抱えもせず大股開きで寝ていた』と言われた。さも、寝ちゃいけないというように言われる。常に品行方正にしていなくてはいけないということが頭にあった。そっとしてほしいなとは思っていた」

 練習中は先輩らチームメート、学校には級友が、家庭には家族がいた。だが、それ以外の時が苦痛だった。いかに自分の身を守るか。

 「自分だけが(新聞やテレビで)取り上げられ、坂本の名を利用しようとする人もいた。学校では先輩や同級生が守ってくれたが、それ以外では何が起きても自分で対処するしかない。私生活の面ではかなり気を使ったし、しんどかった」

 常に誰かの視線を感じ、高校1年生が処理しきれないストレスを抱えた。それだけに、苦痛を理解してくれた周囲の気配りがうれしかった。

 中学時代は主に外野手だった。名古屋電気(現愛工大名電)のセレクションに不合格となり、1977年4月に一般入試で東邦に入学。1年夏の愛知大会から早くも主戦投手となった。

 「一般入試で入学したが、入学式の日に入部したので上級生と一緒に(練習)グラウンドへ連れて行ってもらうことができた。(入部が)1日か2日遅れて他の大勢の部員と一緒だったら、学校の裏で陸上部(のような練習)をやっていた。そんな状況なら辞めていたと思う。運がよかった」

 甲子園では、外角への速球と内角へのシュートを軸にした投球スタイルで勝ち上がった。東洋大姫路(兵庫)との決勝は1-1で延長戦に突入。十回2死一、二塁で4番の安井浩二(のち明大)に、右翼ラッキーゾーンへのサヨナラ本塁打を打たれた。158球目だった。

 当時の高校球界はアイドル全盛時代。鹿児島実の定岡正二(元巨人)、東海大相模(神奈川)の原辰徳(巨人監督)、早実(東京)の荒木大輔(元ヤクルト)ら人気と実力を兼ね備えた選手が甲子園で人気を集めた。同じようにアイドルと言われても、プロへ進んだ3人との違いを坂本は認識している。

 「彼らは実力が伴いルックスも良かったので騒がれた。ぼくはたまたま先輩の力で準優勝しただけ。騒がれ方が違う」

 今夏、早実の清宮幸太郎が話題となった。甲子園が早朝から満員となり、1年生の一挙手一投足に熱い視線が注がれた。今後も清宮への注目が下がることはないだろう。坂本だから言えることがある。

 「けんかを売られても謝るしかない。ワナはいくらでもある。気を付けろとしか言いようがないし、そういうことがあると周りが理解してほしい。周りがちゃんと見ていてほしいな、と思う」

 坂本にはサポートしてくれた仲間がいた。1年夏、坂本は高校日本選抜に選ばれ、韓国に遠征した。当時のメンバーが昨年末、38年ぶりに大阪で集まった。

 「ほとんどの人が集まって、たわいのない話で盛り上がった。楽しかった」。これからも会おうということになり、会の名前を決める時に誰かが言った。

 「あの年はバンビの大会だったから『バンビ会』でいいじゃないか」。当時も今も、上級生は気を使ってくれた。長い年月を経ても友情が途切れずに続いている。アイドルだった坂本は、決して孤立していたわけではなかった。

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