優勝“しそう”と“した”は雲泥の差であると選手に伝えたい 元阪神社長タイガース愛語る【1】

 1990年代にタイガースの球団経営に携わった元阪神球団社長の三好一彦氏(90)が、デイリースポーツ・オンライン連載「三好一彦の遺言」で変わらぬチーム愛を語った。低迷阪神を象徴する暗黒時代も今は昔。タイガース16年ぶりのリーグ優勝を心待ちにしている。

 プレーボールと同時にプシュッ。缶ビールのフタが空く。

 テーブルには三好自身で買いそろえ、手を加えた夕食が並ぶ。

 極楽のゴールデンタイム。タイガースの試合をテレビ観戦し、応援するのだ。

 勝ち負けにとどまらない技術論、組織論を頭の中で巡らすのがこの上なく楽しい。

 野球がない日もルーティンは変えない。朝6時に起きて1時間の散歩に出かける。90歳の身体には負担も大きいが、杖は使わない。脊柱管狭窄症もなんのその。

 家に帰って来るとバットを振る。右や左や後ろへ、20分。もう何年も続けている。風呂に入る時間も同じ。とにかく定刻通り。まるで電車のようだ。

 博子夫人は8年前に他界した。今は西宮の広い自宅に1人で暮らしている。

 灘中(灘高)でも神戸大学でも野球部で活躍した。「1番・セカンド 三好」。関西六大学野球では3学年下に吉田義男(立命館大学)がいた。

 卒業しても審判員を務め、村山実-上田利治がバッテリーを組む関大の試合を裁くこともあった。

 そんな野球一筋の男が阪神電鉄に入社。運輸畑を歩んだ後の1974年に秘書部へ配属され、田中隆造オーナーや小津正次郎球団社長の傍らで、タイガースとかかわるようになる。

 幸か不幸か、この運命的な異動が、その後の三好の進路を決定づけたといえる。

 1990年12月、本社専務として球団社長に就任。ようやく表舞台に立ち、温めていた球団組織の改革やファームの充実、球場の改修に着手した。

 98年10月の退任まで、舞台裏で奔走していた時期を含めると20数年、三好はタイガースと歩みをともにした。

 その間、田淵のトレード、江川問題、数々の監督の解任劇、下位低迷、そして阪神・淡路大震災…日が差した時間は短かった。

 タイガースの歴史の中で最も低迷した時期をファンは暗黒時代と呼ぶ。その象徴と言われることに対し、三好は「受け入れてます」と素直に認める。

 三好「あの時代のファンの人たちも歯痒かったやろうし、思えば厳しい試練の時代でした。その反省が今につながっているんやと思います。負けが続いても、いつも変わらぬご声援を送り続けて下さったファンの皆様には、今なお感謝の気持ちでいっぱいです」

 当時のことは今でも鮮明に覚えている。几帳面な性格のせいか、仕事で使った資料はすべて保存し、吉田監督とのやりとりを記録したノート「三好文書」も大切に保管している。

 あれから随分時間が経った。生まれは1930年9月23日。歳も取ったが、タイガース愛だけは変わらない。

 佐藤輝明の強肩強打に舌を巻き、守備固めの起用法に独りごちる。それが生き甲斐でもある。

 今年は優勝するかもしれない。優勝すれば16年ぶりだ。

 三好「ペナントレースも終盤に差しかかり、各球団の追い込みは激しさを増してきてますが、今年こそ優勝のチャンス。好不調の波はあるとしても、今シーズンのタイガースは戦力的に他球団に引けはとらない。ここからのラストスパートは矢野監督の用兵、采配にかかっていると思う。悔いのないよう死力を尽くして戦い抜いてほしい。健闘を祈ってます」

 三好はさらに「1992年、あと一歩というところで無念な思いを痛感した者として」次の言葉をチームに捧げたいという。

 「“優勝しそう”と“優勝する”は雲泥の差であるということを選手たちに伝えたい」

 亀新フィーバーでリーグ優勝目前まで迫りながら、最後の詰めを誤り2位に甘んじた。

 2年連続最下位からのビッグジャンプを三好は「中村(勝広監督)の大きな功績」と評価する。一度は低迷を抜け出したからだ。

 しかし、世間の注目を集めたフィーバーも、負けては大躍進の域を出ない。

 三好「中村監督と共に戦い、正念場で武運拙く敗れ去ったあの悔しさは今も脳裏を離れない」

 「優勝した」と後に語れる2021年であってほしい。三好は心からそう願っている。

 (敬称略/宮田匡二)

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