名将・渡辺監督が青年指揮官だったころ

 半世紀近くにわたって横浜高校野球部を率いた渡辺元智監督(70)が、勇退した。最後は神奈川県大会決勝で、長年のライバル・東海大相模に敗れた。それでもその輝かしい実績、功績が色あせることはない。

 1968年に監督に就任し、甲子園で通算51勝、5度の優勝。50人以上ものプロ野球選手を輩出した名将にも、青年指揮官だった時代がある。当時を知る同校OB(1977年度卒)で元阪神投手の中田良弘氏(デイリースポーツ野球評論家)に、若かりし頃の恩師の姿を聞いた。

 決勝戦後の会見をテレビで見たという中田氏。「56歳になった今でも、テレビで監督の顔を見ると背筋が伸びる。あのころの緊張感を思い出すね」。年を重ねても、自身の人生において渡辺監督が特別な存在であることに変わりはない。

 中田氏が入学した75年春、渡辺監督は30歳。「まだ若くて元気で、やっぱり怖かった。上級生も監督を恐れていた」。どれほど怖かったのか。一つのエピソードがある。

 「1年生のころ、練習試合の前日に雨が降ったんだ。そしたら上級生が1年生に“水をまいてこい”って言うんだよ。翌日の練習試合を確実に中止にするためにね」

 ここまでの話であれば“野球部あるある”の類いにも思える。グラウンドが水浸しになれば、通常練習よりは軽めのメニューになりやすい。グラウンド整備に時間がかかる分、練習時間も短くなる。しかし練習ではなく“練習試合”というところが引っかかる。

 「練習でも怖かったんだけど、練習試合のときの監督は特別怖かった。ミスをするたびに怒鳴られ、特に基本的なプレーにミスが出たときは恐ろしいぐらい怒られた。先輩たちは監督があまりにも怖くて練習試合を中止にしようとしたんだ」

 しかし球児たちの企みはもろくも崩れた。

 「オレたちが水をまいていたときに監督が戻ってきたんだよ」

 その後の展開はご想像のとおり。“水まき事件”での渡辺監督の怒りようは、今も中田氏の頭から離れない。

 その厳しさの原点は「弱い横浜に戻っては困る」という思い。横浜育ちの中田氏が子供の頃は「東海大相模とか法政二高が強いイメージだった」という。全国区レベルでの注目を集めるほどではなかった横浜を68年から率い、73年のセンバツで初出場初優勝。常勝軍団への礎を築いた。

 「基礎体力、基本プレーを徹底させる監督だった。練習で基本的なミスをするたびに全員で三塁線に並んで、そこからライトフェンスまでウサギ跳びを往復させられた。でも今から考えると感情的に怒られたことは一度もなかったように思う」

 練習前にはグラウンドを20周。さらに基礎トレーニングなどをこなし、ウォーミングアップだけでもバテバテになり、その後に猛練習。最後にはベースランニングが延々と続く。140人ぐらいいた1年生は、3年生になると20人も残っていなかった。

 練習や練習試合では厳しかった監督も、公式戦となるとベンチで笑顔を浮かべた。「選手を萎縮させないように、のびのびとプレーさせようとしていた。この監督を勝たせたい、と思えるような監督だったね」。

 中田氏は高校卒業後、亜細亜大に進学。中退して日産自動車へ進み、80年度ドラフトで阪神からドラフト1位指名を受けてプロ入りした。大学を中退した際には、渡辺監督にも報告に出向いたが「もともと高校を出たら社会人へ行きたかったというのも分かってくれていたから」と怒られることはなかったという。プロ入りの際には巨人か地元の大洋を希望していたが、阪神が1位で単独指名しそうなことが分かると「阪神にお世話になりなさい」とアドバイスを受けた。

 最近は連絡を取り合うことも減ったが「今でもオレにとっては絶対的存在。あの3年間があったからプロ野球選手になれたと思うし、今がある」と感謝する。

 「長い監督生活で家族も大変だったと思う。自分が家族を持って初めてその大変さが分かった。これからは奥さんと旅行でも行ってもらいたいね」

 中田氏がテレビ画面越しに見た恩師の表情は、昔よりも少しだけ優しくなっていた。

(デイリースポーツ・岩田卓士)

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