没後10年の高田渡を息子の高田漣が語る

 高田渡さんといえば、「自衛隊に入ろう」「自転車にのって」「生活の柄」「コーヒーブルース」といった数々の名曲で知られるフォーク歌手だ。

 自作にこだわらない独自の音楽スタイルや独特なライフスタイルで生前から既に伝説的な存在だった渡さんが、公演先の北海道白糠町で倒れ、56歳で急逝したのは2005年4月18日だった。

 今年、没後10年のプロジェクトとして、初のオールタイムベストアルバム「イキテル・ソング~オールタイム・ベスト~」と、長男でミュージシャンの高田漣によるカバーアルバム「コーヒーブルース~高田渡を歌う~」を、渡さんとは縁の深いキングレコードのベルウッドレーベルが4月15日にリリース。

 同17日には17歳からの日記「マイ・フレンド 高田渡青春日記 1966-1969」が河出書房新社から発売された。井上陽水らが出演した同18日の東京グローブ座をはじめ、全国各地でトリビュートライブ「Just Folks」も開催されている。

 ベスト盤を選曲し、カバーアルバムを制作し、日記を編み、ライブに出演とトリビュートの中心で動いている漣に、父・渡さんについて聞いた。

 「小学校に入るくらい(の頃まで)は、父が普通だと思っていたんですよ。父の周りの人たちもあんな感じの人たちが多かったんで。ところが小学校に入ってみると、周りのお父さん方は全然違うわけですよね。だからその頃になって、ふと父はすごく特異な(人で)、自分は特異な環境にいるってようやく気付いたんですけど」

 渡さんの生涯は数々の伝説に彩られており、漣もそれを目の当たりにしながら育った。

 両親は漣の幼少時に離婚し、漣は母親と住んでいたが、「すごく変な家族で、すぐ近くに住んで」いた。母と渡さん、漣と渡さんの交流も続いていた。

 漣が子供の頃、一人で留守番していると「急におやじが入ってきて『おお』って。鍵を持っていたんですね」ということがあった。渡さんは風呂場に入ると、買ってきた手おけなどのセットを置いたり、シャワーヘッドを交換したりと「全部変えて直してきれいにして」、「じゃあ」と帰って行ったという。

 また、ライブが1回しかないのに、公演先から1カ月帰ってこないこともあった。後年、ミュージシャンになった漣が地方に赴くと「渡さんがいらして、1カ月くらい帰らなかった」といった思い出話を聞かされることはしょっちゅうだ。

 漣は「ほとんど家にいない人だったんで、家族感は希薄な人だった。家にいて何か創作してスタジオにこもって演奏してっていうよりは、ギター1本担いでいろいろ旅をして色んな人に会って歌を歌うっていうのがやっぱり好きだったんでしょうね」とみている。

 渡さんといえば、酒にまつわるエピソードも欠かせない。漣が高校生の時、吉祥寺を同級生と歩いていた時のことだ。

 「昼間なのに泥酔したヒゲ面のおやじが女性2人に抱えられて歩いてきたりして。同級生が『あ、渡さん』って声をかけると『何だ君たち、高校生?漣君の友達?漣君によろしくね』って。僕も目の前にいるのに、泥酔してて(気付かない)」

 そんな渡さんだが、普通の父親らしい顔を見せる時もあった。

 漣は高校2年生の時、「プカプカ」で知られるシンガー・ソングライター、故西岡恭蔵さんのアルバムで、プロのミュージシャンとしてデビューした。

 大学を卒業するにあたっても、そのままミュージシャンの道を歩んだが、渡さんは「その時は珍しく怒ってました」。「せっかく大学まで行ったのに」ということを、漣に電話で「ずーっと」怒っていたという。

 漣は「父は、最初の頃は高校も行けないような状態で文選工として働いていたりとか、だから学に対してすごく憧れがあったんだと思う」と言う。「(渡さんは)僕が色んなことを勉強したりしてることにはすごく喜んでいたし、むしろ僕が音楽をやってることをあまり快くは思ってなかったですね、最初のうちは」と回想する。

 とはいえ、漣が大学を卒業した当時は、バブル崩壊直後の就職氷河期。渡さんもそのニュースは見ていたようで、最後は「お前が大学を卒業してどっかいい企業に入ったところで、ずっとその生活があるかどうかもわからないような世の中だから、まあちょっとだけで途中でやめたっていいんだから、じゃあやってみろ」と、応援してくれたのだった。

 漣は、プロデビュー数カ月後には渡さんと共演している。その後も数多く共演し、大ヒットしたドキュメンタリー映画「タカダワタル的」(04年)でも親子共演のようすを見ることができる。

 現在、歌手、マルチ奏者、プロデューサーなどで多彩に活躍し、日本の音楽シーンに欠かせない存在に成長した漣は、父から受けた影響をこう明かす。

 「父と一緒にやるようになってから、歌がいかに映えるようなアレンジメントをするか、演奏するかっていうのをすごく学んだんですね。アレンジメントの時にいつも気をつけるのは、歌を殺さない、歌ありきでそれに最小限の音を足すっていうような発想ではありますね。過度に飾ってしまうことで歌が消えちゃうんだったら意味はないのかな、っていうのは、一緒にやっていてすごく勉強になりましたね。またそういうこと言うんですよ。『お前の音はでかい』とかね。『音が多い』とか言われて。父が演奏家に求めているのってのは、そういうことでしたね」

 先述したようにこの4月、希代のフォーク歌手だった渡さんの世界に触れるには絶好の環境が整った。折に触れて渡さんの歌を聴き返してきた者として、より多くの新たなリスナーが増えることを願ってやまない。(デイリースポーツ・藤澤浩之)

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