「約束の海」と久万元オーナー

 書評用の書籍がほぼ毎日、各出版社から編集局宛に送られてくる。小説、ハウツー物、ノンフィクション、自伝。ありとあらゆる種類の新刊本が届けられる。

 手に取るのはそのうちのわずか。読者に紹介したいと思うものと、個人的嗜好に合うものを基準に選ぶのだが、今回は両方のアンテナに引っかかった。山崎豊子さんの「約束の海」だ。

 正直な思いで振り返れば、老眼の進行で細かな字を追うのが億劫になっているいま、新潮社刊の分厚いハードカバーはかなりの重圧だった。日々の間隙を縫って一気に読了。巻末に収められた続編の粗筋も含め、読みごたえは改めて言うまでもない。

 執筆途中での死去によって「未完の遺作」となった今作品は、山崎さんのこれまでの著書とはまた違った位置付けで後世に語られていくのだろう。

 「戦争は私の中から消えることのないテーマです。戦争の時代に生きた私の、“書かなければならない”という使命感が、私を突き動かすのです」(同書「執筆にあたって」から)

 山崎さんは1924(大正13)年生まれ。「戦争の時代に生きた」という言葉がピタリと当てはまる青春期を過ごしている。

 「書かなければならない」。ああ、そうか、そうだったのかと納得した。元阪神タイガースのオーナーで2011年に亡くなられた久万俊二郎さんは「言わなければならない」人だったのか、と。

 1921(大正10)年生まれの久万さんは、いまなお象徴的な映像シーンで知られる「雨中の神宮壮行会」に参加し、海軍予備学生として学徒出陣した。東大を仮卒業のまま航空隊付少尉となり、終戦の玉音放送は生駒の山頂にあった基地で聴いた。

 久万さんは、野球記者の私によく戦争の話をしてくれた。タイガースの次の監督は教えてくれなくても、海軍時代の思い出は問わず語りで口にした。それこそ「言わなければならない」という感じだったのかと、いまにして腑に落ちた。

 ただ、武功を誇るような勇ましい内容ではなかった。目が悪かったため操縦桿は握れず、航空隊基地での後方支援が主な任務だったという。海軍予備学生は特攻隊志願者が多く、同期の戦死率は17%にも上った。だから自制の思いも強かったのかもしれない。

 いわゆる「ポツダム中尉」で焦土の神戸に復員。「明治生まれが始めた戦争で、大正生まれの多くが死にました。だから昭和生まれのあなた方には、いつまでも平和であるようにと願って働いてきました」。久万さんの話は、そんな風に終わることが多かった。

 戦争の時代に生きた人が、確実に少なくなってきている。

 戦争の時代にどんな空気を吸い、何を食べて、何を考えて過ごしていたのかを、いまのうちに「書かなければならない」「話さなければならない」と想いを募らせる人たちに、向き合わなければと思う。

 ともに1931(昭和6)年生まれの私の両親は、山崎豊子さんよりも少し遅れた時代に青春期を生きた。「皇国少年」「皇国少女」と呼ばれ、勤労動員中の14歳の夏で先の大戦が終わった。

 最近は、実家に帰るたびに話を聞くようにしている。昔のことはよく覚えているのが年寄りだが、久万さんが生駒の山頂で聴いた玉音放送を、父はしかし「知らんねん」と首を振る。

 午前中から友人と工場を抜け出し、爆弾で空いたと思われる穴にたまった水に浸かって泳ぎ遊んでいたという。前日の8月14日には近くの大阪・京橋駅で空襲があったばかり。「泳いで帰ったら戦争が終わっていた」という父の話を、その子供として、さて、だれに明かしたらいいものかと悩んだものだ。

 山崎さん、久万さん、両親。戦争の時代に生きた人たち。その人たちのことを、かみしめている。

(デイリースポーツ・善積健也)

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