古葉竹識さん安らかに 前代未聞の出雲での大送別会が忘れられません

東京国際大監督の古葉竹識さん(右)と三男の隆明コーチ=11年6月
 東京新大学春季リーグで東京国際大を初優勝に導いた、監督の古葉竹識さん(中央)=2011年5月、さいたま市川通公園球場
日本シリーズ 近鉄-広島第七戦 初の日本一を達成し、チャンピオンフラッグの後ろに並んで祈念撮影。前列左2目から)衣笠祥雄、山本浩二、古葉竹識=1979年11月4日、大阪球場
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 広島や大洋で監督を務めた古葉竹識さんが12日に亡くなっていたことが明らかになった。85歳だった。リーグ優勝4度。日本一3度。強いカープの礎を築いた人だった。この場を借りて広島、大洋両球団で担当記者だった当時を思い起こし、追悼したい。

 古葉さんが亡くなったことを同僚から聞いた。えっ。まさかという思いと、もうそういうお年なのかという諦めたような思い。二つが交錯した。

 最後にお会いしたのは2009年。東京国際大野球部の監督をしていた時だ。当時、津田恒美さんの長男・大毅さんが在籍。「大毅がカープに入ったらうれしいんだけどねえ」と楽しそうに話していた。

 広島担当として古葉さんを取材したのは1985年。大洋担当として取材したのは就任当初の87年。つまりカープの最終年とホエールズの1年目。

 当時、古葉さんが大勢のコーチを広島から引き連れて大洋入りしたため、週刊誌には「担当記者まで連れて行った」と書かれた。少し大げさだったが“古葉ファミリー”の一員に加えてもらい、それはそれでどこか誇らしい気分だった。

 カープ時代、古葉さんとは住居が近所だったことから、「いつでもご飯を食べに来なさい」と言われていた。だが畏れ多くて結局、開幕の盛大な出陣式とシーズン最後の“辞表提出”の日にお邪魔した程度だった。

 11年間指揮を執った最後の日は、辞任する監督の胸中を知るために、古葉さんが運転する車に同乗させてもらった。

 ところが、大したことも聞けず、背広の内ポケットには多分、辞表が入っているのだろうと邪推しながら、広島市民球場までの15分を浪費した。

 古葉さんは今で言う“こわやさしい”人。独身だった私の食生活を心配してくれる反面、取材に甘さが出ると「ちゃんと見ていたの?」と厳しく突っ込まれたものだ。

 選手に聞いても「厳しい」「怖い」「優しい」といろんな声を聞く。ベンチ裏での鉄拳制裁は日常茶飯事。それでもみんなが付いていく。隠れた手厚いフォローがあるからだった。

 広島の監督を辞任したシーズンオフ。前代未聞?の大送別会が催された。古葉監督以下全コーチや裏方さん、そして用具運搬用のトラック「カープ号」の運転手も参加した。

 新聞各社やテレビ局の人間が中心になって企画した出雲への1泊旅行だ。

 何しろ担当記者全員が参加するのだから規模がデカい。観光バスを借り切って出発。当時は、それでもその日の記事は出していたのだから、結構、いい加減な時代だったかもしれない。

 旅館では飲めや歌えのドンチャン騒ぎ。寸劇の余興も用意して、場を盛り上げた。古葉さんは気分良さそうに演歌を歌っていた。

 広島での労苦を全員で労い、その栄光を全員で称えた。涙を流していた古葉さん。記者人生で後にも先にもない、得がたくて貴重な1日だった。

 帰りに出雲大社へ寄って「招福祈願」の絶対金の成る棒を買い込み、「ちゃんと仕事しなさいよ」と言われながら、古葉さんにカープで最後のサインをしてもらった。

 “喝”の文字の上に重ねるように書かれた72番のサイン。金は成らないけど、今でも自室の机の上で、ずっと私を睨んでます。(デイリースポーツ・宮田匡二)

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