羽田で甦る35年前の記憶

 【8月12日】

 小学生のころ、僕の家庭教師だった奈良女子大のおねえさんが日本航空のCAになった。国際線乗務だった彼女から歳の離れた弟のようにかわいがってもらい、ステイ先からの便りが楽しみだった。

 いつも欧州から絵ハガキをくれる…しかも細かい文字でぎっしりと。今思えば、親以外で信頼できる唯一のオトナだった気がする。絵ハガキのエアメールは中学へ進学してからも続いたのだが、ある時から連絡は突如途絶えた。

 それは…1985年である。

 多感な中学3年生だった僕は、8月12日の大事故をテレビで知ったとき、震えが止まらなかった。イニシャルはG・Mさん。カタカナの乗員名簿を何度も探したけれど、彼女の名前は……なかった。

 御巣鷹山の日航機墜落事故は乗員乗客524人のうち520人が亡くなる日本の航空機事故で史上最悪の墜落事故となった。

 羽田から伊丹へ飛んだ123便に乗っていた坂本九が犠牲になったことは間もなく報道で知ったけれど、当時G・Mさんのことばかり気になり、阪神球団社長の中埜肇(なかの・はじむ)が搭乗していたことは、随分経ってから知ることになった。

 あれから、35年である。

 阪神球団にとって「忘れてはいけない」この日、横浜の宿舎を出た阪神球団社長・揚塩健治は、羽田から伊丹へ飛んだ正午発の航空機に搭乗した。別業務があり、ひとりチームを離れた揚塩だったが羽田の搭乗ゲートで航空機を待つ間、8・12の残酷な記憶がやはり脳裏をよぎったに違いない。

 35年前といえば、揚塩は阪神電鉄入社3年目。同社のビル経営部に所属し、岡山県の牛窓(うしまど)町に赴任していた。8・12は報道番組とにらめっこしながら中埜の無事を祈ったが、訃報を知り愕然とした。当時は、のちに自身がその職に就くとは考えもしなかったが、85年のタイガース史は克明に記憶するのだ。

 中埜の死亡は8月16日に確認されたが、吉田義男監督率いる阪神は事故の翌日から6連敗を喫してしまう。創設50周年の伝統球団はそれでも逞しく、選手会長の岡田彰布を中心に悲しみを乗り越え、21年ぶりにセ・リーグを制覇。西武との日本シリーズも勝ちきり、球団初の日本一に輝いた。

 「8月12日も、10月16日も、11月2日も、すべて岡山でテレビにかじりついて見ていましたね…」

 いつだったか。揚塩から85年の思い出を聞いたことがあった。日航機事故、リーグ制覇、日本一。3つの日付をすべて転勤先で経験したが、「タイガースのあの盛り上がりを(阪神電鉄の本社で)肌で感じることができなかったのは…」と、いまも残念がる。

 そういえば、僕の家庭教師だった日本航空のG・Mさんは岡山県久米郡出身。連絡が途絶えた理由を知りたくなる8・12である。

 この日、揚塩は横浜の逆転劇を自宅のテレビで見届けた。岡山時代の記憶が甦る特別な夜、揚塩は静かに手を合わせ、中埜に2度目の日本一を誓うのだ。=敬称略=

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