打ったろう。守ったろう
【7月30日】
藤浪晋太郎と2人でテーブルを囲んだ夜がある。時期がコロナ禍でなかったことだけ断っておくが…その席で少年野球の話題になり彼の過去について僕は何度もツッコんだ。「うそやん?」-。
子ども時分から同級生より頭一つ以上大きかった晋太郎である。少年野球ではさぞ「怪物扱い」されただろうし、相手チームは藤浪少年の投げる剛速球にまるで歯が立たなかっただろうに。
「いや、それはないですよ。初回からめった打ちされたこともありますし、ちょっと強いチームと当たれば、普通にKOされたことだって何度もありますからね」
にわかに信じがたかったけれどまぎれもなく本人談である。
甲子園春夏連覇。この大看板を背負った者にしか分からない辛苦そして矜持があると、勝手に想像してきた。でも、晋太郎が子どもの頃から挫折知らずのエリートでは必ずしもなかった過去を知ると彼に対する見方は少し変わった。
神宮球場でプロ8年目のマウンドに立った晋太郎である。思い返せば、プロ初登板初先発のマウンドが神宮だった。無造作に伸びた髪のせいか。もがいた年輪が目尻に滲むからか。当然といえばそうなんだけど、13年3月31日の記憶とは別次元の面構えである。
僕が嬉しかったのは、久々に晋太郎の感情を見た六回-。青木宣親を三振に斬って2度手を叩き、走者を三塁において山崎晃大朗を三振に抑えると強く拳を握った。いずれも決め球は精度の高まったフォーク。3年連続2桁勝ったあの雄々しさがそこに宿っていた。
僕が注目したのは、久々に晋太郎が試された七回-。北條史也の拙守で招いたピンチでどう振る舞うか。思えば、プロ初先発のマウンドでは、初回に味方の失策でピンチを背負い、そのミスをカバーしきれずプロ初失点。あのとき晋太郎は神宮の導線を引き揚げながらこう語っていた。
「ミスは誰にでもあります。投手も四球があるので。ミスをカバーできる投手になりたい」-。
ドラフト制後、高卒新人最速となる開幕3戦目の先発マウンドに立った18歳はか細かった…が、見る者すべてを惹きつける何かを神宮で漂わせていた。当時、ネット裏の記者席で晋太郎の一挙手一投足を〈観察〉しながら、結局その何かを言い表せなかった。
8年前の神宮もヤクルト継投の前に完封された。晋太郎は6回7奪三振自責2でプロ初黒星。ときの監督・和田豊は「本人よりも周りが硬くなっていた。打ったろう守ったろうって」と振り返っていたが、この夜も野手にそれと似た〈硬さ〉があったのか…。
藤浪を立てて完封された夜だ。味方失策が重なったのも〈晋太郎ゆえに〉課された鍛錬と僕は受け止める。
背番号19が見る者を惹きつける何か…それは甲子園連覇の残影ではきっとない。全力で一塁へ走り味方のミスをカバーしようと泥にまみれるスピリット。這い上がってきた彼の球史がその源泉になっている気がする。=敬称略=