克則に聞いた野村阪神

 【2月20日】

 宜野座を離れ、野村克則に会いに行った。ノムさんの逝去から9日が経った。実子の胸中を察すれば、まだ記者にペラペラ話す気にはなれないはず。だから、克則がノーといえば触れないでおこう。

 沖縄県北部の某所。克則は顔にやや疲れをにじませながら、それでも、僕の〈直球〉を彼らしく篤厚に受けとめてくれた。

 「わざわざ、ありがとうございます。う~ん、阪神時代ね…」

 そう。偉大な父である第28代監督とともに過ごした2シーズンについて、振り返ってほしい。

 克則が野村阪神へ金銭トレードで入団したのは00年のこと。当時大きな話題になった一方で、色眼鏡で見る者も少なくなかった。成績はご存じの通り。だから、野村ファミリーに対するファンの風当たりも強く、克則にとっても、試練の時期だったに違いない。

 「3年連続最下位だったから、監督にとっても、いいことはなかったんじゃないですかね…」

 克則はしばらく考えを巡らせながら、そう言った。彼はノムさんのことを、少なくとも僕らの前では、「親父」ではなく「監督」と呼ぶ。監督を男にしたい…選手誰しもが抱く感情を、暗黒期の阪神で強く抱いていた克則である。

 あらためて彼のキャリアを振り返ってみると、阪神時代が最も輝きを放ったことが分かる。

 「監督と一緒にやったときでいえば、一番は、高津さんから打ったサヨナラヒットかな。あのシーズンは確かオールスター前に7連勝くらいして、グッといきそうな感じだったんですよね。あとは、その7連勝を決めた巨人戦のサヨナラヒットでしょ。それから、井川とのバッテリーで巨人を1-0で完封した試合も覚えてますよ」

 野村阪神時代「一番の思い出」を尋ねると、01年7月のヤクルト戦で高津臣吾(現ヤクルト監督)から放ったサヨナラ打を挙げた。

 「確か、ベンチに山田(勝彦)さんと僕しか残ってなくて…」

 九回2死一、二塁でノムさんから代打コールされ、左中間へ…ここまでは記憶にあっても、克則はその後のシーンを思い出せない。

 「いつも、試合前、本当に早くからグラウンドを整備をしてくださっている阪神園芸の皆さんに感謝したいです」-。

 プロ初のサヨナラ打で自身初のお立ち台に立った彼は、マンモススタンドの大声援に応え、甲子園でそんな言葉を発したのだ。

 阪神園芸施設部長の金澤健児は「よく覚えてるよ」と懐かしむ。

 克則はなぜ、阪神園芸が試合の何時間も前から整備していることを知っていたのか。金澤は言う。

 「あの当時、いつもグラウンドに一番早く出て練習していたのが克則くんだったからね。僕らの仕事を毎日見ていたんだと思う」

 監督……いや、親父を男にしたい。絶対に口に出せなかった言葉だけど、克則は敬愛の父へ恩を返したい、その一念で歯を食いしばり…僕はそう思っている。この日楽天ベンチで円陣を組む作戦コーチ野村克則を眺めながら、矢野阪神の孝行息子を探す。=敬称略=

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