3・11…TとGが担うもの

 【3月11日】

 復興庁によると、その数は7万3349人だという。この広い甲子園でも受けとめられないほどの人々が、いまだ避難生活を余儀なくされている。11年3月11日の東日本大震災から7年が経った。宮城の地元紙、河北(かほく)新報には、震災犠牲者は行方不明者、関連死を含め全国で計2万2081人に上る-と記されている。

 「日々街の中で生活していると復興を感じるんだけど、沿岸地域はまだまだ感じられないよな…」

 金本知憲の大学時代の同級生、佐藤茂徳に電話すると、そんなふうに話した。いつだったか、僕のコラムにも登場してもらった佐藤は東北福祉大野球部の日本一メンバー。1991年の全日本大学選手権決勝戦では金本が右翼手、佐藤が左翼手として初優勝に貢献した。現在は家族と仙台市内に暮らし、今も金本とは年に一度、仙台で旧交を温めている。金本が「シゲ」と呼ぶ佐藤は7年前、赴任先の山形で被災し、3日間も家族との連絡が途絶えた。佐藤と金本は何年経っても「アホ」「ボケ」とじゃれ合う仲。「風ちゃんは元気か?俺は元気だぞ」。話せばこちらが元気をもらえる人だけど、あの日の恐怖、心の傷はいつまでも癒えることはないという。

 3・10は星野仙一の追悼試合。そして、この日も追悼の…仙台を「第2の故郷」という金本がずっと大切にしている日である。

 「飛行機を降りて、まさに津波の爪痕というか…2階まで崩れた家、ガラスが割れっぱなしの建物…ショックだった。想像以上。被災地に足を運んで、仮設住宅に住んでいる人たちは、自分たちの家が崩れてここで暮らしているのかと思うと…こみ上げてしまった」

 このコメントは11年5月27日、楽天との交流戦で震災後はじめて訪れた仙台で金本が語ったもの。あのとき新井貴浩、鳥谷敬ら主力とともに、津波で壊滅的な被害を受けた沿岸部、岩沼市の小学校と仮設住宅を慰問。支援物資としてタイガースのハンドタオルとタオルケット大人用800枚、子供用400枚などを届けた。当時、僕も岩沼に同行させてもらったのだが、心を打たれたのは金本らと交流した子供たちの顔…。腕相撲、かけっこ…心から喜び、跳ねる姿を見て、例の言葉は違うんだろうなと感じた。「野球選手は野球でしか勇気づけられないので」-。

 大学時代の親友が福島県会津若松市で暮らしている。明治創業、安藤染店の経営者、安藤暢明。国内屈指の染め物業を営む彼は3・11に会津若松で被災。この日連絡すると、7年間を振り返りこう言った。「震災を経験してありがたかったことは、関西からの支援、それと…福島の子供達のために香川真司選手ら、多くのスポーツ選手が来てくれたことなんだよ」。

 3・11のオープン戦初勝利。本番前だろうが、巨人と交われば甲子園の空気は変わる。伝統の両軍がファンの心を躍らせるのだ。東北の復興はまだまだ道半ば。今年阪神は交流戦で仙台へ向かう。ぜひもう一度…。そんな思いを巡らせる日になった。=敬称略=

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