【平成物語7】「ジョホールバルの歓喜」で歴史の証人に

【平成9(1997)年 サッカー日本代表W杯初出場】

 今でも目を閉じ、耳をすませば20年以上前のあの瞬間にタイムトリップできる。あの街の喧騒(けんそう)とモスクに沈む夕日の赤さを忘れることができない。平成9(1997)年11月16日…。私は異国・マレーシアのジョホールバルにあるラルキン・スタジアムの記者席で、記者冥利(みょうり)に尽きる瞬間をかみしめていた。

 その年の3月に長らく携わったプロ野球担当から、サッカー担当に異動した私は歴史の証人になった。史上初となる、リーグ戦最終戦時の勝率が同率のチーム同士が戦い、勝った方がリーグの覇者となる長嶋・巨人-高木・中日の「10・8」決戦もそうだった。だが、「ジョホールバルの歓喜」は、それに勝るとも劣らない出来事だった。

 日本サッカー界の悲願であるワールドカップの出場を決めた歴史的な試合は、日曜日の夜に開始の笛が鳴った。午前0時をまたいだにもかかわらず、地上波の平均視聴率が47・9%を記録し、試合直後から日本列島が歓喜の渦に包まれた。

 イラン代表との間で、フランス大会に出場するアジア第3代表の座をかけて争う一大決戦。本大会の直前合宿(98年)で落選したFWカズこと三浦知良の交代要員だったFW城彰二が同点ゴールを決めて延長戦に。そして最終予選では一度も出場機会がなかったFW岡野雅行のゴールデンゴールで、本戦初出場を決めた。その瞬間、私は立ち上がり「やった~」と咆哮(ほうこう)し、魂が抜けたように日の丸が揺れるスタンドをしばし眺めていた。

 延長戦から投入された“野人”岡野は、その俊足を生かして何度もゴールに迫ったが、シュートを外し続けた。日本サポーターで埋め尽くされたスタンドから何度も漏れたため息と悲鳴が耳にうるさかった。岡野と交代した、きーちゃん(北澤豪)がこのときのベンチの状況を説明してくれたことがある。「岡野がシュートを打つごとに、みんなで飛び出す用意をしたんだけど、毎回失敗して、ドリフターズのコントのオチみたいにハラホロヒレって座り込むの。岡田さんはしまいには“岡野死ね”“海に飛び込め”って絶叫してたよ」-と。

 予選中に加茂周氏が更迭され、ヘッドコーチだった岡田武史氏が監督に昇格。さまざまな紆余(うよ)曲折を経てW杯切符を手に入れた。それ以降、日本国内のサッカー熱は日を追うごとに高まっていき、翌平成10年の本大会を迎えたが、その渦中に身を置いていたのは、私の自慢である。(デイリースポーツ・今野良彦)

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