【ファイト】初代タイガーマスク、虎ハンター・小林邦昭さんの思い出を語る 「新日本プロレスの猪木イズムをぶつけ合っていた」
9月9日、虎ハンターの異名を取った元プロレスラーの小林邦昭さんが68歳で死去した。1982~83年にかけて小林さんとプロレス史上に残る熱い抗争を展開した初代タイガーマスク(佐山聡=65)が、好敵手にして戦友だった小林さんへの思いを明かした。
◇ ◇
終始沈痛な面持ちの佐山は「ショックで姿勢が30センチぐらい沈んだような感じになっちゃいました」と、訃報を聞いた時のことを振り返った。
最後に会ったのは昨年12月13日、帝国ホテルで「その時は元気でしたね」と、異変は感じなかった。今年になって小林さんの体調が悪化したことを知った佐山は何回か電話を入れ、「元気になったら飯食いに行こう」と話していた。
亡くなる1カ月前、佐山が「会おうよ」と話すと、小林さんは「いま療養してるから」と断ったという。病んだ姿で会いたくなかったのだろうと推察した佐山は、病気に効くものを「いろいろ自宅に贈り物をした」が、実らなかった。佐山は「一回でも会えれば良かったと思うけど、会えなかったのが残念でしたね」と悔やむ。
亡くなる3日前に電話すると、普段ならあるコールバックがなかった。「こんなに早く亡くなるなんて。こんなに早く逝かれるとは思わなかった」と、佐山は衝撃が解けない様子だった。
遺体に対面したのは9月16日。「安らかに眠っている感じでした。最後までレスラーでしたね。『ありがとうございました。これから何かあったら義務として面倒見ますから』という話をして、お祈りして帰って来ました」と、お別れをした。
タイガーマスク時代は激しく抗争した2人だが、新日本プロレスの先輩・後輩として、若手時代から仲が良かった。
「優しい人間なので先輩面は絶対にしないし、一番下っ端の私に対しても、こき使うこともなく。四輪自転車を2人でこいで道場から多摩川の土手沿いを通って田園コロシアムに向かって、お客さんの前で手を振ったりして。試合場に着いたら2人が試合だってことが分かって、帰りは1人で帰るしかなかった。思い出はいっぱいありますね」
試合では激しくぶつかり合った。「亡くなる前の電話で、小林さんが『俺たちいい試合したな』なんて話をして。タイガーマスクじゃなくて、若手の時代の話をしてたんですね。いい試合やった若手には皆お小遣いが出たんです。一番僕たちがもらっていて。若手の時代、何十回も試合をやってるけど、1回も勝てなかった。すごいライバルだなと思って」。
メキシコ修業時代も、グラン浜田宅の一室を借りて、半年ほど同居生活を送った。「2人でサンドバッグを買ってきて蹴り合ったりとか、軽くスパーリングやったりとか。アカプルコで、タッグマッチで初めて戦うことになったんですよ。リングに入ったらお客さんがすごく沸いちゃって、(部屋でやっていた)そのスパーリングをやったら皆ものすごい沸いて、一番いい試合ができました」という思い出もある。
英国を経て81年に一足早く帰国した佐山は、タイガーマスクに変身して社会現象的な一大ブームを巻き起こした。翌年帰国した小林さんは虎ハンターとしてタイガーのマスクを剥ぎ、壮絶な抗争を展開したが、佐山は「気持ちの上では(若手)当時の新日本プロレスの熱い試合」をやっていたと明かす。
小林さんは「僕が言っているストロングスタイルが一番できる相手」。表面上は英雄と悪漢だったが、「僕はベビーフェイス対ヒールで戦っているつもりはない。新日本プロレスのストロングスタイルでバチバチやり合うような試合をやることしか考えていなくて。戦いなんだという気持ちで。新日本プロレスの猪木イズムは試合内容よりもそっちが一番大切なんですね。それをその姿勢でタイガーマスクの時もやっただけですね。新日本プロレスの猪木イズムをぶつけ合っていた」と振り返った。
また、先にブレークした佐山には「小林さんが(日本に)帰った時点で、絶対に引き上げてやるというつもりしかなかった。だから思い切りガンガンやったし、思い切り行ったし」と、小林さんにスポットライトを当てたいという気持ちも強かった。
小林さんはその後もプロレスラーとして活躍し、佐山はシューティング(修斗)を創設して、総合格闘技の開祖的な存在となる。交友も復活したが、95年にシューティングでエキシビションマッチを行った際、佐山は左ハイキックで小林さんを失神させてしまう。
「シューティングのリズムでやっていて、後半になったら、エキシビションですから本人も何も関係ないと思って(無防備に)入ってきちゃった。僕も感知できなくて、止めた瞬間に当たっちゃって」
それでも小林さんは佐山に怒らず、佐山も「謝り通した」という。2人にはアクシデントでは壊れない絆があった。
「例えばブランクが半年空いても、いつでも会えるみたいな。そんなに長く感じないんです」
かつて抗争した仲だけに、食事する時には個室にするなど苦労もあった。「2人で飯食ってたら変な風に思われちゃうし。あっちは顔が割れてるし、こっちは顔を出していないけど分かる人もいるし、変な風に思われるかなって感じですね」。
小林さんの最後の試合になったのが、2013年に佐山と組んで大仁田厚、矢口壱琅組と対戦した試合だった。運命だったのではないか、と聞くと佐山は思わず涙ぐみ、言葉にならなかった。
佐山にとって、小林さんは「恩人でもあるし、戦友でもあるし、友達でもある人」だった。小林さんがいなかったらタイガーマスクのあり方は変わっていたと思っており、「あそこ(抗争)でストロングスタイルが出てきたというのは、自分にとっても新日本にとっても一番いい時限爆弾じゃないですかね」と語る。
小林さん亡き後どのように生きて行くのかと聞くと、佐山はこう答えた。「僕はプロレスラーとしてのプライドと武道家としてのプライドを作り上げるまで頑張りたい。もっと強くもっともっと加速していきたい。正しいプロレスをつくるというのは大変な労力がいる。それをもっともっと追求していきたい」。
それこそが、小林さんに恥じない生き方にもなるのだろう。(デイリースポーツ・藤澤浩之)