【スポーツ】曙太郎が部屋を継承していたら…“東関消滅危機”によぎる切ない思い

 大相撲の第64代横綱・曙太郎(51)は、東関部屋の消滅危機に何を思うのか?肉声が聞けないのが、非常に残念である。

 14日初日の大相撲春場所(東京・両国国技館)を前に、ショッキングなニュースが世間を騒がせている。米ハワイ出身の元関脇・高見山が1986年に外国人出身者として初めて設立し、曙もかつて所属していた東関部屋が、消滅の危機にひんしているという。急逝した第13代・東関(元幕内・潮丸)の後継者として、元小結・高見盛が第14代として部屋を継承したが、その条件としていた「継承は暫定1年」の期間が終わろうとしているからだ。

 このニュースは現在、37分間の心停止の後遺症から重度の記憶障害に見舞われ、17年から闘病、リハビリ中の曙の耳には、届いているのだろうか。曙は01年初場所全休後に引退。その後は年寄名跡こそ取得していなかったが、5年間は現役のしこ名のまま年寄を名乗れる横綱特権で、東関部屋の部屋好き親方として後進の指導に当たっていた。

 だが、さまざまな理由から03年11月に日本相撲協会に退職届を提出して格闘技K-1に参戦。その後、プロレスラーとしての道を歩むことになったが、普通なら高見山が故郷のハワイでスカウト。外国出身の力士として初めて横綱となった曙が、東関部屋を継承しても、何の不思議ではなかった。

 一時は疎遠だったが、部屋との関係が途絶えたわけではない。13年6月には先代親方の依頼で部屋の師範代に就任し、まわしを締めて若手に胸を出したこともある。それに、現親方は自らの付き人で、高見盛の本名加藤から「カトちゃん」と呼び、「面白い人間なんだよ。感心する。音楽を聴きながら漫画を読み、そしてテレビもみている。いいねぇ~」と、いじり倒していた相手である。自らが元気ならば、現親方のここ1年の奮闘に対し、なんらかのアドバイスを送っていたかもしれない。

 曙は、私にとっては横綱にもかかわらず取材しやすい力士だった。思い出はいくつかある。記者仲間の何人かと、曙が当時住んでいた東京・福生の自宅に呼んでもらい「これ、食べてよ」と、赤ん坊の頭ぐらいある巨大ハンバーガー2個を差し出すようなちゃめっ気に吹き出したことがあった。

 また、プロレスラーになってからも「横綱」と呼ぶと「もう横綱じゃないっていうの」といいながら、人なつっこい笑顔を浮かべてくれる人間だった。最後に会ったのは14年12月のチャリティープロレスのときだっただろうか。私をみつけると「久しぶり。何でいるの?」と寄ってきてくれた。「曙、電撃引退」の原稿を書くため、記録的な大雪の中、当時は東京都墨田区にあった東関部屋の前で関係者を待っていた思い出もある。

 たら・れば-は禁物である。だが、もし曙が部屋を継承していたら-と思うのは私だけではないだろう。=敬称略=(デイリースポーツ・今野良彦)

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