【野球】元阪神キーオさんが遺した言葉「僕の一番の仕事は巨人を倒すことだった」

 1日に64歳の若さで他界した元阪神のマット・キーオさんに初めて会ったのは2001年5月30日のことだ。本紙企画「愛するタイガース OBからのエール」のための取材。当時デビルレイズ(現レイズ)のメジャースカウト(スコアラー)としてマリナーズ対オリオールズの試合を視察するため、セーフコフィールド(現T-モバイル・パーク)を訪れた元虎のエースに話を聞いた。

 吉田義男、村山実、中村勝広。87年から90年の4シーズン、3人の将の下でプレーした。順位は6、6、5、6。「チームが勝てなくて苦しかったですね」。それでも来日1年目から3年連続2桁勝利&チーム最多勝。「毎試合多くのファンが応援に来てくれた」。虎党の声援に応えるために懸命に投げ続けた。

 録音テープを聞き返しながら、キーオさんの言葉をここに記す。

 「チームから課せられた僕の一番の仕事は巨人を倒すことでした。いつも巨人戦で投げていましたね。関西対関東。なにがなんでも巨人には負けられない。巨人さえ倒せばすべてオッケーみたいなところはありました。東京のレストランで『ジャイアンツ・キラー』と呼ばれた時はリスペクトを感じてうれしかったですね」

 高卒ルーキーだった桑田真澄とはよく投げ合った。「英語がとても上手でね、よく話し掛けられました。英語で言えば、オカダ(彰布)のワイフは完璧でしたね。とても助けられました」。裏話も明かしてくれた。

 阪神へのエールをもらった後は自ら話題を切り出す。

 「当時、最も活躍していた海外選手は巨人のクロマティ、近鉄のブライアント、西武のデストラーデ、そうそう、ヤクルトにはホーナーとパリッシュが、横浜にはポンセがいた。巨人のガリクソン、近鉄のデービスもよかったなあ。僕の1年目にはバースがいたし、フィルダーとも一緒にプレーした。いい選手がたくさんいましたよね」

 01年はイチローのメジャー1年目。開幕から安打を量産し、チームの快進撃の原動力となっていた。「イチローはすべてを兼ね備えたコンプリートプレーヤー。きっと球宴にも選ばれるし、ゴールドグラブも獲るでしょう。たぶん、首位打者にもなるんじゃないかな」。同じくメッツでメジャーデビューを果たした新庄剛志を『ニュージャパニーズ』と呼び、その身体能力の高さを絶賛した。かと思えば、再び、自身の阪神時代に逆戻りし、「遠藤(一彦)が25歳でメジャーに来ていたらトップクラスの投手になっていたよ。大野(豊)、川口(和久)、斎藤(雅樹)、桑田もこっちで先発1、2番手になれたと思う。野手では篠塚(和典)、正田(耕三)、池山(隆寛)、秋山(幸二)も通用したんじゃないかな。清原(和博)もこっちで見てみたいね」

 最後はキーオさんの独演会状態。重低音の渋い声が耳に心地よかった。(デイリースポーツ・小林信行)

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