【野球】野球少年の“公園”をつくりたかった星野仙一氏

 闘将がいなくなって2週間がすぎた。1月22日は今月4日に亡くなった星野仙一氏の誕生日。今年で71歳になるはずだった。

 「しっかりしなきゃ。落ち込んでいたら星野さんに怒られる」。こんな言葉を何度聞いただろう。楽天はもちろん、阪神、中日と星野氏が籍を置いた球団関係者だけではない。その声の多くがアマチュア野球関係者から届く。それは星野氏がプロ、アマの壁を真に取り払い、大きなピラミッドとして発展させるために水面化で働いていた証しだ。

 2008年、北京五輪の日本代表監督を務めた星野氏。しかし、ワールドベースボールクラシック(WBC)の定着とともに「五輪はアマに返して、アマ選手の目標となるべき」と考えていた。「全員がプロになれるわけじゃない。アマにも最高峰の舞台が必要なんだ」と持論を述べていた。

 野球少年の減少がそう考える理由の一つだった。「野球人口の底辺拡大」という問題はプロ、アマを問わず共有されている。野球教室など地道な活動は各地で行われているが、さらなる起爆剤が必要だと考えていた。

 「最近の公園は危ないからってキャッチボールが禁止されているだろう。じゃあどこで最初に野球をやるんだ?」と声を荒らげたことがある。「子どもたちが野球をやる場所がないなら作るしかない。そのためには費用がかかる。それなら例えばサッカーくじのようなものを考えてもいい」。そんな壮大なプランを本気で口にしていた。

 「(賭け事となると)抵抗はあるかもしれないが、自分たちのためじゃない。球界の未来のために使うと考えればいいんだよ」。理想主義者でありながら現実主義者。それが星野仙一だった。多くのアマ関係者が死を嘆いているのは、球界の底辺拡大に取り組むさなかで、その比類なき決断力、行動力を失ったこともあるだろう。

 亡くなる1週間前の昨年12月26日。ある有名大学の元監督は星野氏の自宅を訪れた。深夜までコーヒーを飲みながら雑談をして数時間を過ごした。「腰が痛いと言っていたが、病気だとは感じられなかった。帰ろうとしても、まだいいだろうと引き留められた」と言う。亡くなる前日の1月3日朝にも別の大学監督の電話に出ている。アマ関係者とこまめにコンタクトをとり、情報収集を怠らなかったのは次の段階を見据えてのものだった。旅立つ直前までそれは変わらなかった。

 02年、星野氏が阪神監督就任時に記者は虎番となった。当時から選手の母校の指導者に会うと「いい選手をくれてありがとう」と感謝したり「なんや、あいつは!」などと冗談まじりで悪態をついたりしていた。強豪校か否かに関わらず、指導者一人一人に向き合っていた。アマ側からすれば手塩にかけて育てた選手を安心して任せられただろう。ある高校の指導者は「プロアマを超えたコミッショナーになってくれたらいいと思っていた」と悔やんだ。

 3球団でのリーグ優勝、五輪代表監督、球団副会長。そして、野球殿堂入り。球界で得られるほとんどの栄誉を手にしたかのように見える星野氏が、最後にどうしてもほしかったのは、野球少年のための“公園”だった。それを思うと切ない。せめて東京五輪までいてほしかった。その先の球界を見届けてほしかったと、ただ思うばかりだ。(デイリースポーツ・船曳陽子)

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