アニメ映画史を揺るがす大傑作『犬王』、湯浅政明監督「歴史に残らなかった2人の話」

無限の可動域、大胆なギミック、奔放なパース(遠近法)・・・アニメーションならではの表現で、国内外のファンを魅了してきた湯浅政明監督。世界最高峰『アヌシー国際アニメーション映画祭』では、宮崎駿、高畑勲に次ぐ日本人3人目となる長編部門グランプリを獲得するなど、今や日本を代表するアニメーション作家だ。

そんな湯浅監督が新たに挑んだのは、室町時代に民衆を熱狂させた実在のポップスター・犬王。あの世阿弥にも影響を与えた能楽師・犬王と、平家の呪いで盲目となった琵琶法師の少年との友情を描いたロックオペラな最新作『犬王』について、湯浅監督に話を訊いた(一部ネタバレあり)。

取材・文/ミルクマン斉藤

「出来るだけ多彩に、室町なめんなよと」(湯浅監督)

──もうずいぶん前ですが、湯浅監督の初長編作『マインド・ゲーム』のときにお話を伺って以来になります。あの作品の完成度や特異性は異常なほどでしたが、まさに今回の『犬王』はそれと双璧を成す巨大な映画になったなぁ、と。

そう思っていただけるとありがたいです。自分としても、これはちゃんと作れば良い作品になるはず、と見えていて、できるだけそこに近づこうとしたので。

──室町時代に活躍した実在の能楽師・犬王をモデルにした作家・古川日出男の小説『平家物語 犬王の巻』。これは、『平家物語』のスピンオフにあたる話ですよね。原作もとても特異な語り口ですが、これは監督が見つけてこられたんですか?

いえ、企画として「こういうのはどうですか?」というお話をいただいて、面白そうだったのでまずやってみましょうと。そこから内容を読み込んで行く感じでした。

──湯浅作品に魅了されるもっとも大きな要素は、キャラクターの動きの面白さ、まさしく「これが映画だ!」と言い切れる運動性にあると思うんです。今回はそれこそダンスと音楽、演者と民衆の熱狂そのものが、隅々までぶち込まれていますよね。

いやぁ、近年は見せるべきスペクタクルな部分をどうやって上手く逃げようかって感じだったんですが(笑)、やっぱりこの作品ではそこを避けて通れないなと。でも、ここまでダンスが多いと結構大変で。絵の密度もいつもより上げたので、スタッフには無理を強いてしまいました(苦笑)。

──猿楽の一座に生まれた主人公・犬王は異形の子と疎まれ、その顔は瓢箪の仮面で隠されています。犬王の身体が変容していくにつれ、踊りのスタイルも変わっていき、そして、ときの将軍・足利義満の寵愛を受けるほどのポップスターに成り上がっていきます。

犬王自身はおそらく、最初は単純にダンスを見てもらいたかっただけだと思うんですね。そういう純粋さが犬王の良さだと僕は考えていて。それで彼は満足しているんだけど、身体が変わっていくことでダンスの幅も広がり、どんどん激しくなったり、最終的には優雅というか幻想的なダンスに成熟していく。

そもそも室町時代の能は、現代より3倍くらい速いダンスで、跳んだり跳ねたりする曲芸のようなものもあったらしい。そんな激しい踊りからだんだん優美になって、ついにはいろんな感情を押し殺した今の能に近い唄舞になっていった、きっかけというか歴史的な転換期を描いているつもりです。

──そうした猿楽から能楽へと至る変遷が、現代のさまざまなダンスのスタイルを借りながら描かれていく。あの多様な振り付けはどうやって演出されたんですか?

原画スタッフに考えてもらった部分もありますけど、大体の流れは古今東西のダンスのニュアンスを採り入れながら考えたものをコンテにして、想像したものに近いビデオなんかもできる限り集めて打ち合わせして、細かいタイミングなどは出来上がった音楽に合うよう作画の方に考えてもらう形ですすめました。

コンテは音楽が出来る前に想定で書かれていて、細かい・・・たとえば1秒間にステップをいくつてのは指定出来ないんです。(原画が)良い感じで上がってくればそのまま通して、思う感じでなければやり取りをしながら直していきましたね。

──琵琶法師の少年・友魚の平家語りがゴリゴリのロックというのももちろんですが(笑)、ダンスも「能楽=猿楽」というイメージから自由に逸脱しちゃってますね。

猿楽は皆さんの思っている能楽とはだいぶちがって、散楽に近い部分が多分にあったようです。歴史ってもっと多様だろう、というのが今回のテーマでもあるので。ミュージカル映画『雨に唄えば』(1952年)みたいなダンスもあるし、M.C.ハマーの横移動やカール・ルイスの幅跳びみたいなのもあるし(笑)、体操やバレエもある。長い歴史の中では今と変わらないニュアンスが起きた可能性は否定できないし。出来るだけ多彩にしながら「室町なめんなよ」と思いながら作っていましたね。

「ロックが一番ストレートだなと」(湯浅監督)

──幼少期の犬王のステッピングは、まさにシュルレアリスティック(超現実を追求する芸術思想のこと)なまでの異様さが楽しい。

全体的に出来るだけシャッフルダンスみたいな、足を使ったダンスを取り入れたんですね。そしてそこは犬王の体型や場所を生かした感じになっています。村上泉(アニメーション映画『ピンポン』以来の原画担当)さんや榎本柊斗さんなんかがいいのを描いてましたね。足のダンスで言えば「竜中将」で総作画監督の亀田祥倫さんもいいのを入れてました。それ以外もいろいろありますけど。

「腕塚」はレイアウトだけになったけど、向田隆さん(映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』原画)の仕事が良かったですね。足が生えたあとの軽快な走りは榎本柊斗さん(テレビアニメ『映像研には手を出すな!』作画監督)・・・というように、それぞれいい感じを出してもらっています。

──アニメーション界を代表するような錚々たるスタッフですね。今回、脚本を担当したのが、映画『罪の声』、ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』などで知られる野木亜希子さんです。ちょっと意外な組み合わせなんですが、どのようにしてあの原作をアレンジされていったんでしょう。

原作は調子よくあっちに行ったり戻ったり、また飛んだりとかするんで、それを映画として1本のストーリーにまとめてゆく感じですすんでいきました。名前の意味合い、もうひとりの主人公・友魚の名前が変わっていくところ、犬王が自分で名前を決めるというところを強調して、野木さん中心に謎解きも含めてクライマックスへと盛り上がるようにまとめていきました。

──金閣になる以前の北山第で将軍・足利義満に謁見するシーンが映画のクライマックスですが、実は原作にはないんですよね。

やはり山場は必要ですから。実際犬王は晩年、北山第で展覧能を勤めたらしいです。犬王は義満と仲違いをした時期もあったけれど、最終的にはまた仲良くなったという話もあります。まあ、ちょっと気にくわないところもあるけれど関係は続けていく、という感じにしました。身分の高い人に寵愛されなければ、やっていけなかった時代だと思いますから。

──芸能の流行り廃りは昔から目まぐるしいですしね。そのなかで勝ち残るのも大変。

ホント、みんな気が変わるのが早いので(笑)。同じ時期に田楽があって、田楽の方がこのあと隆盛を極めていくなかで、猿楽も2つの地域が競っていた。世阿弥が属した結城座がある「大和猿楽」4座と、犬王の比叡座がある「近江猿楽」6座です。

しかし、その後の将軍達にも寵愛された「大和猿楽」は残って行きましたが、犬王も属した「近江猿楽」6座の方は、比叡座が結城座に吸収されると共に消えていった。世阿弥は犬王を尊敬していて、幻想的な舞に影響を受けたというようなことを書き残していたりしていて。そういう関係もちょっと面白いなと思って入れています。

──今回、踊りの音楽をロックンロールでまとめられたのは監督の意向ですか?

最初に企画をいただいたとき、室町時代のポップスターを描くんだって、現代のロックシンガーの写真も一緒に入っていたんですよ。単純に僕はそれを面白いと思って、当時の人にとっては現代のロックスターのように感じたであろうと。

特に熱狂させるっていう意味では、自分の知っている音楽ではロックが一番ストレートだなと。だから、ロックというのは最初から考えていて、それでどういうロックかを試行錯誤しながら探っていって、最終的に今のかたちになった感じですね。

──まあ、ロックと一言で言えども、いくつものスタイルがありますもんね。

力強くて激しくて不敵な、ちょっと悪いもののような感じで。たぶらかすような、扇動するような感じのものとは思って例をいろいろ挙げたりしていたんですけど、なかなか共通意識をもつのが難しかった。それで先に、歌がある体でライブムービーを作って、それに合わせて作曲してもらう方法にしました。

「そこを犬王のゴールじゃないようにしようと」(湯浅監督)

──それにしても大友良英さんとのコラボレーションは強力です。

音楽の大友さんにしろ、脚本の野木さんにしろ、(キャラクター原案の松本)大洋さんにしろ、最高峰のクラスですから。プロデューサーから「音楽は大友さんはどうでしょう?」って提案があって、「そりゃあやって欲しいですよ」となって。

でも大友さんと「室町時代のロック感」がうまく共有できなくて苦労はおかけしました(苦笑)。最初のセッションで違うな、となって。説明していっても、大友さんは全然わからないと。「振り付けが先に欲しい」と言われて。

──曲の展開をどうすればいいか、今ひとつ見えなかったんでしょうね。

後から思えば、ですけど。ミュージカルは1つの感情で1曲作って、数曲を並べてお話を作っていくと思うんですけど、「犬王」は1曲のなかで舞台上のお話が展開して、それ以外に外のストーリーも展開しているので、抑揚付ける希望したタイミングなどもいろいろあって。それ、「劇判」に近いんですね。抑揚も絵が見えないと程度が分からない。

ロックと言っても、弾き方や、歌い踊ってる感じが分からない。だけどこっちも音楽なければ、絵を作れないと思ってましたが。このままでは進まないと思って、イメージに近い曲を編集してそれに歌詞を想定して展開した絵コンテを切りました。それでムービー作って。すると、それに合わせて大友さんがぴったりとムービーに合わせて作曲してくれた。

そのときにやっと、僕の求めていた力強いロックみたいな、不敵な歌がでてきて。それからアヴちゃんに好きなように・・・といっても、映像の筋や展開に合わせた感じでワードを入れてもらいつつ、歌入れになると、どんどんアヴちゃんがアイディアが出て先導してやってくれて。

──犬王の声を演じたアヴちゃんは、湯浅監督が手がけた『DEVILMAN crybaby』(2018年・Netflix作品)にも大魔王ゼノン役で出てましたが、やっぱり声が素晴らしいですね。あの驚異的な音域の広さとダイナミズムは、なかなか見当たらない。

芝居はゼノン役のイメージしかなかったんだけど、女王蜂でのステージングがとにかく素晴らしいってことで、アヴちゃんと森山未來さんに、登場人物(犬王と友魚)を寄せていった方がまとまるのかなって思い始めて。

こっちが想定してるキャラクターに合わせて人を探としてもなかなか上手くいかない。こっちもキャラ設定がふらふらしてましたから。才能のある2人にキャラクターを合わせていった方が良いなと思って。途中で方向転換して、犬王と友魚の根本的なニュアンスが決まっていった感じがありましたね。

──犬王はそもそも異形で生まれるじゃないですか。芸を極めるたびに体が変化していく点など、手塚治虫さんの『どろろ』の百鬼丸を思い出させます。

僕も最初、その印象がありました。そこがまた面白いところでもあったんですけど。ただ、やっていくうちに決定的に違うことがハッキリしてきて。百鬼丸は魔物を1匹退治するごとに身体が戻っていく。つまり自分を取り戻していく話なのに対して、犬王は意外とそれは求めてないし、暗くない。

犬王は天真爛漫に踊りたいだけで、それを観たみんなが勝手に癒やされていく。そしたら、自分の身体も変化していくみたいな。彼としては、初めて足が伸びて変化したところで120%うれしいんですよ。だから、身体を取り戻すことが犬王のゴールじゃないようにしようと。

──橋の下でのロックの場でも、群衆の一番前で障害をもった人たちが見事なブレイクダンスを踊るシーンが何度か出てきます。当時の社会的ヒエラルキーの下層にいる者があそこで一番素晴らしい舞を見せているというのが、犬王と呼応するようで。

社会から無視されていた人たちですよね。犬王をはじめとする能楽師も、将軍に人気がありながら、地位としてはすごく低かった。だから、町民の見る目もちょっと不思議なものを、自分より下なんだけどなんかすごいことをしていると、尊敬の部分もあったりして。

当時、あそこから地位を駆け上っていくには、芸事か侍になって功を立てるしか方法がないんです。調べていくと、いろんな芸術家がそこから出ていたけど、地位までは認められていなかった。そんななか、姿が異形であることから、やはり社会から抹殺されていた犬王が、逆にその異形であることをも利用してのし上がってゆく。面白いので、感化されてみんなも自分なりにやり出したり、力を与えてるような感じに見えればなと。

──盲目の琵琶法師である友魚もそのひとりですもんね。

そうですね。「自分たちは侮られる存在ではないんだぞ」というところが描きたい部分でもありました。

「もっと自由に生きて良いんじゃないか」(湯浅監督)

──今回、松本大洋さんがキャラクター原案をされてますけれども、テレビアニメ『ピンポン』(2014年)以来ですよね。

元々、大洋さんは古川日出男さんの『平家物語』と『犬王』の挿絵を描かれていたので、内容も把握されてて。僕のなかに犬王のイメージもあったんですけど、逆に大洋さんはどう考えているのかまず知りたかった。だから最初に自由に描いてもらって、そこに僕なり犬王を話し合いながら入れていった感じですね。

──右手だけが異常に長いというのは、あれは監督のアイディアですか?

そうですね。なにか大きな特徴を付けた方が良いと思って。諸星大二郎さんのマンガ「西遊妖猿伝」に、ぐーんと手が伸びる妖怪が出て来るんですが、そういうのも面白いなと。片腕だけがすごく長くて、片方は短く違うところに付いているみたいな。

──そんな異形の物が見事に動きまくるという。まさにアニメーションの醍醐味ですよ。あの形態でありながら、まさに疾駆しますもんね。爽快なまでに。

最初、走るのに腕が邪魔にならないかなとも思ったんですけど、杞憂でした。原画も良かったです。爆発的で爽快な疾走感が欲しいシーンでした。

──ところで湯浅監督の作品は、『映像研には手を出すな!』の女子高生3人とか、『ピンポン』のペコとスマイルとか、補完し合ってひとつのものを創造していく関係がたまにありますよね。今回も、犬王と友魚の一種のバディムービーといえると思いますが、そういうところに惹かれたというところはありますか?

『映像研~』は理想像ですよね。実際はあまりそう上手く行く事はないですが。人がこう上手く組み合わさるとすごいことができるんだって。映画『マイ・フレンド・メモリー』や映画『ヒックとドラゴン』も好きですね。『犬王』はピンポンと同じように、犬王が光で、それに惹かれた才能が友有りなんだろうと思います。

あの時代に運命的に逆らえないような姿で生まれてきても、まったく気にもしない。自分はこう生きたいんだという犬王の生き方に、周囲の人が巻き込まれていく。特に友魚なんかは負の運命に左右されそうになったけど、犬王に引っ張られて高みに登っていく。また犬王も友魚がいたおかげで、すごくスムーズに上がっていく感じになったと思うんです。

──なるほど、必ずしも最初から補完し合う関係ではない。

友魚がいなくても、ああいう誰かと出会っただろう犬王がいて、友魚は犬王がいたからこそ駆け上がっていけた。だから、もしかしたら犬王から裏切られたかもと思ったとき、友魚はドロップアウトして、ダークサイドに堕ちてしまう。犬王は自分の夢はあるけれど、友魚のためならそれを捨てることさえできる。踊ることさえできればいいから。

というところで、歴史に残らなかった2人の話を今見てもらうというのがテーマでありながら、お互いを理解し合える友がいることはすごく良いことだなぁと。ちょっと苦手な人、理解できない人がいても、理解する想像力があれば関係も変わってゆくのではないかという現代とも繋がるテーマ。そんなバディの関係を意識しました。

──師匠に友一の名を与えられた友魚が、友有(ともあり)と自ら名を変えたとき「我はここに有るんだ」と言いますが、「友が有るんだ」というようにも読めます。犬王も自分で自分の名前を決めた。あのシーンで2つの創造体がひとつになる。

そうですね。

──先ほど野田さんと脚本を作る過程で、そこに向かってクライマックスを作っていったとおっしゃってましたが・・・。

名前=生き方という事ですね。当時は名前をどんどん変えていく時代でもあったんですが、自分で名前を決めるというのは生き方を自分で決めるということにもなる。無謀なことですけれども、それって意外にできちゃう。

そこもちょっと現代と繋がるんですけれども、人に迷惑をかけず、自分で責任が取れるならどんな無茶な生き方をしても良い、それで成功することもままあるんじゃないかなって思うところがあって。失敗しても自分で責任取れるなら、もっと自由に生きて良いんじゃないかなって。

(Lmaga.jp)

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KobeShimbun

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