生田斗真&瑛太・W主演の問題作「友罪」瀬々敬久監督に訊く
『ヘヴンズ ストーリー』(2010年)、『64-ロクヨン-』(2016年)などの代表作を持つ瀬々敬久監督が放つ新たな問題作『友罪』。生田斗真に瑛太という現在の日本映画界で人気・実力ともにトップと言っていい2人を主演に、少年犯罪を題材にして交錯するいくつかの人生を追い、2人の青年の関係を通して「生きる」ことの意味を問う。来阪した監督に話を訊いた。
取材・文/春岡勇二
「『人はなぜ人を殺してはいけないのか?』という問い」(瀬々敬久)
──映画化の話がきたとき、監督はすでにこの原作は知っておられたのですか?
いや、知りませんでした。ただ、原作者の薬丸岳さんのデビュー作で、少年犯罪を題材にした『天使のナイフ』は読んでいて。あの小説が発表された当時、文芸誌などで「人はなぜ人を殺してはいけないのか?」といった特集が多くなされていて、それに誰も明確に答えることができなかった。その、答えることができないというのを、映画にできないかと考えていた時期があったんです。でも、うまくいかなかった。それで今回、原作を読んだときには、「ああ、薬丸さんは書き続けていたんだ」と素直に畏敬の念を持ちました。
──なるほど。ただ、原作とは違う設定がいろいろなされているようですが。
そうですね。原作小説では、映画で佐藤浩市さんや夏帆さんが演じた人物たちも、主人公の生田斗真さんと瑛太さんと同じ職場で働いているんです。それは読み物としては成立するけれど、映画としては奇妙な感じになってしまう。そこで群像劇ではあるが、人物をそれぞれバラバラにして追っていく形にしたんです。プロデューサーとは、2004年のアメリカ映画『クラッシュ』みたいなスタイルでやろうという話をしていました。
──原作について、ほかに思われたことはないですか?
これまで、実際に起こった事件や、事件を想起させるものを題材にしている小説の場合、その事件が中心にあり、事件そのものや、そこに至るまでの過程を描くものが多いのですが、薬丸さんの『友罪』は事件の後を描いていて、ほかのものと視点が違っていて面白いと思いました。また、事件の後を描くということは、僕らが実際に過ごしている時間とリンクするわけで、僕らのいまのリアルな生活と接点があるともいえる。そういう時間を描くことに挑みたいという気持ちもありました。
──実際にあった事件が根底にあり、その後を描くということでは、監督の代表作『ヘヴンズ ストーリー』もそうですね。
ええ。先ほど言った「人はなぜ人を殺してはいけないのか?」という問いを考える映画を撮りたいと思っていたのは、『天使のナイフ』が発表された2005年頃のことで、そのことがどこかに引っかかっていて、それが『ヘヴンズ ストーリー』につながっていったことはあるかもしれません。また、僕自身の過去の映画を考えても『黒い下着の女 雷魚』(1997年)や『HYSTERIC』(2000年)の頃は、事件そのものを描いていたのに対し、『ヘヴンズ ストーリー』以降は、事件の後を描くようになりました。その意味でも、この原作は合致していました。
──なぜ、事件そのものより、その後を描かれるようになったのでしょうか?
いまはマスコミの取り上げ方や僕らの受け取り方もそうですが、事件が起こっても次々と消化されていくだけになってしまっている。そうしなければ新たなものに対応できないですから。でも、そこにはやっぱり「それでいいのか?」という思いもある。そういう「歯がゆさ」でしょうね。ひとつの事件の「場」に居続ける人間が居てもいいのではないか、居るべきではないかという思い。ただ、そういう人間はどんどん取り残されていってしまいます。それでもその「場」に居続ける人間に興味があるんです。そう考えると『64-ロクヨン-』(2016年)もそういった映画でしたね。
──確かにそうですね。今回の『友罪』は、神戸で起こった連続児童殺傷事件が想起される内容になっています。それについて、なにか留意されたことはありますか?
あの事件については関係者の手記が何冊か出ていますが、それらの内容に引きずられないようにしました。映画で描いているのは、あくまでも映画のなかでの犯罪ですから。映画のなかでかつて罪を犯した青年を瑛太くんが演じてくれていますが、この青年像を、初めからこういう風に描こうとかは決めずにやろう、というのは考えていました。「実は彼は純粋な青年でした」みたいな明解な答えが見えるというか、そこにたどり着こうとするのではなく、どこにいくのかわからない、結局不可解なままでもいいじゃないかと。
「本番以外ではほとんど口をきいていなかった」(瀬々敬久)
──人間なんてそう簡単に割り切れるものじゃないですものね。でも、演じる側としたら、やり甲斐はあるだろうけど難しい役ですね。
不可解な部分をずっと残したいというのは瑛太くん自身の希望でもありました。彼がそうしたいと言ってくれたので、「うん、それでいこう」という感じでした。
──この役に瑛太さんをキャスティングしたのは監督の考えですか?
そうですね。彼には『64-ロクヨン-』にも出てもらっていて、とても魅力的な俳優だというのはわかっていましたから。本番前にテストを重ねるのですが、彼は毎回違った演技をするんです。引き出しの多い、信頼のおける俳優です。
──もうひとりの主演、生田斗真さんはどうでしたか? 生田さん演じる役も、ずっと罪の意識を背負ったまま生きていて、たまたま心ふれあった人間に連続殺人犯ではないかと疑念を抱く、これもかなりの難役です。
彼は普段は全然オーラを感じさせないんです。あの世代の俳優は、カメラが回っていてもいなくても関係なくオーラ全開という人が多いのに、彼はカメラが回る寸前までまるで普通の佇まいなんです。それが、カメラが回ったとたんおそろしいほどのオーラを感じさせる。撮影しながら「すごいな、こいつ」と思いながらやっていました(笑)。演技についても、これまでの作品を観ていて、とても振り幅の広い演技力を持っているのは知っていたので、安心していました。
──2人の息も合っていますね。夜の公園で2人がお酒を飲みながら、それぞれの秘密に迫るシーンは観ていてドキドキしました。
直感的な演技をする瑛太くんを、生田くんが生真面目に受け止めて芝居を絡めていく。あのシーンは流れを決め、打ち合わせは綿密にしましたが、芝居そのものは2人にまかせてアドリブでやってもらいました。2人とも役柄をよく理解した迫力ある演技をしてくれました。そうそう、息もぴったりだったと言ってもらいましたが、実はあの2人、本番以外ではほとんど口をきいていなかったですね。
──えっ、そうなんですか。
ええ。もともと2人とも無口ではあるんですが、おそらく意識して口をきいていなかったと思います。現場では、生田斗真と瑛太としているのではなく、益田と鈴木という映画のなかの役柄の人間としてその場にいたかったんでしょう。こっちもそれがわかるので放っときましたけど(笑)。
──なるほど。それを聞いてうかがいたくなったのですが、映画のなかのあのふたり、益田と鈴木はほんとうに友達と言っていい関係なのでしょうか?
うーん、それは難しいところですね。ただ、2人がともに心開きあった部分はあったと思います。その関係を友達と言うかどうかですが。少なくとも2人にはつながったところはあって、ダッシュ付きの友情というか、こういう気持ちは友情(といっていいかもしれない)、みたいなカッコ付きの友情というか、それに近いものがあったとは言えると思います。
──つながっているといえば、ラストシーンがそうですね。生田さん演じる益田の独白に、どこにいるのかわからない、瑛太さん演じる鈴木の映像がつなげられている。
あれはね、かつて鈴木清順監督の映画であったじゃないですか。あるシーンに突然違うシーンをぶつけるようにつなぐ手法。
──ありました。いわゆる清順美学的表現のひとつで。
あれを鈴木監督はモダニズムでおこなっているわけだけど、今回、僕が意識したのは鈴木監督ではなくて、渡辺護監督なんです。
──あぁ、ピンク映画の巨匠だった?
そうです。あの渡辺監督です。渡辺監督の作品にあるんですよ、あのように時空間をつなげる手法が。それを鈴木監督のようにモダニズムでおこなうのではなく、渡辺監督はもっと情念のなせる技として見せるんです。脚本が大和屋竺さんで、その影響も大きいと思うんですが『女地獄唄 尺八弁天』なんかがまさしくそうで。僕はあの手法は、映画が奇跡を見せることができる表現だと思っています。ラストシーンで益田は自分の過去と向き合っているわけですが、その声は離れた場所にいる鈴木にも届いているのではないかという奇跡ですね。
──それは2人にとって「救い」と考えていいのでしょうか?
救いと言っていいかどうかはわかりませんが、少なくとも2人にはカッコ付きではあっても、友情らしきものがあったことの証しであり、人が生きるにはああいうつながりが不可欠だろうという僕の思いですね。
(Lmaga.jp)