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ブラインドゴルフをパラ種目へ 半田JBGA会長が意欲

 優勝のマーク・エシュバンク選手(右から3人目)らを表彰した半田晴久会長(中央)
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 日本ブラインドゴルフ振興協会(JBGA)が主催する視覚障がい者のゴルフ競技会「文部科学大臣杯(第14回) 2019 ブラインドゴルフ ジャパンオープン チャンピオンシップ」が9月18、19日の2日間、神奈川県箱根町の箱根湖畔ゴルフコースで開催された。日本最大規模の国際大会で世界6カ国から59選手が参加。熱戦を繰り広げた。今年は東京五輪・パラリンピックを翌年に控え「東京2020応援プログラム」の一環としても開催され、将来の五輪種目へとつなげる重要な大会となった。なお大会はマーク・エシュバンク選手(豪州)が優勝した。

 夕暮れの箱根。プレーを終えた参加者の誰もが満足な笑顔を浮かべていた。

 3年ぶりの開催となるブラインドゴルフの世界大会「2019 ブラインドゴルフ ジャパンオープン チャンピオンシップ」。海外からも選手が参戦し、ラウンド中や表彰式では日本語、英語、イタリア語などさまざまな国の言語が飛び交った。国境を超えた交流、友情が、ブラインドゴルフを通じて生まれていた。

 そんな様子を見ていた「世界ブラインドゴルフ協会(IBGA)」総裁で大会主催者「NPO法人 日本ブラインドゴルフ振興協会(JBGA)」の名誉会長・半田晴久氏(68)は「継続していくことが大事。これからもブラインドゴルフ、障がい者ゴルフを日本と世界で支え続けたい。これが私の宣言。お約束です」と高らかに宣言した。

 31年前の1988年。半田氏はオーストラリアのパースでブラインドゴルフに出合った。目に障害を抱えながらも、それを感じさせない明るくプレーする盲人たちの姿に感動。それが支援の始まりだった。「日本の視覚障がい者にもブラインドゴルフの楽しさ、素晴らしさを知ってもらおう」と帰国後に「日本ブラインドゴルフ振興協会」の前身で日本初の「ブラインドゴルフ倶楽部」を立ち上げた。そして、ブラインドゴルフだけでなく障がい者ゴルフの幅広い振興を図り、スポーツを通じた社会貢献を実践するために、08年に「国際スポーツ振興協会(ISPS)」を設立したのだった。「ブラインドゴルフの父」と言われる由縁だ。

 長く続けてきた支援活動。それは、盲人ゴルファーの「ブラインドゴルフをパラリンピック競技に」の夢をかなえるためだ。今大会には、31年前に半田氏と一緒にラウンドし、ブラインドゴルフ支援のキッカケを作った盲人ゴルファーのロン・アンダーソン氏(78)が参戦していた。久々の再会に旧交を温めたが、実は彼からも「皆の夢がパラリンピックでプレーしたい。ミスター半田、かなえてくれよ!」と懇願されていた。

 この言葉が半田氏の原動力だ。31年間、地道にロビー活動を続けてきた。ISPSを設立したのも「盲人ゴルフは障がい者ゴルフの1種目。まずは障がい者ゴルフが認められることが必要」との考えからだった。

 「ぜいたくなスポーツ」。そんな概念があり、なかなか認められない中、半田氏の熱い情熱を持った地道な活動はようやく実りつつある。昨年からP&A(英国ゴルフ協会)が、障がい者ゴルフの枠組みと基準を作る動きを始めた。米のPGAもデモンストレーションの機会を設けた。

 今大会も、スポーツ庁が後援したほか、前回からは文部科学大臣杯が授与されている。来年の東京五輪&パラリンピックを控え「東京2020応援プログラム」のサブタイトルも付くなど、世の中の認識も大きく変化。夢のパラリンピック競技に大きく前進している。全世界で競技人口は約600人だが、その3分の1にあたる200人が日本。それだけに、日本からこんな動きがあった事実が大きい。

 大会開催中は熱中症の症状や徹夜での仕事など多忙を極め体調不良ながらも、表彰式に羽織袴(はかま)の正装で登場した半田氏。最後に「ダニーボーイ」など歌声を響かせ参加者を喜ばせるなど、国際大会のホスト国代表の責務をまっとうした。「継続が大事だ」。夢の実現へ今後も熱き思いを持って動き続ける覚悟だ。