風魔忍者と死闘を繰り広げた江戸の“ダークヒーロー”大盗賊の高坂甚内は病気平癒の神となっていた

 風魔忍者と死闘を繰り広げた江戸初期のダークヒーロー、大盗賊の高坂甚内は、病気平癒の神として祭られていた。

 江戸幕府の初期、3甚内と呼ばれる人物がいた。吉原遊郭の総名主となった庄司甚内(甚右衛門)、古着市を仕切った鳶沢甚内、そして高坂(向坂)甚内である。3人とも盗賊上がりの人物だったとされるが、高坂甚内の出自が実に面白い。下総国・向崎の出身とされるが、一説によると、武田信玄(晴信)の武田家の重臣・高坂弾正正信の息子とも孫ともいわれている人物である。怪談「番町皿屋敷」のヒロイン・お菊さんの父という話まである。

 高坂弾正は人生の大半を春日虎綱と名乗っていた戦国時代の武将で、武田晴信、勝頼親子に仕え、武田四天王の1人だった。高坂甚内も武田家に仕え、武田忍者の頭目であったとされている。

 だが、武田家が滅亡。甚内は主家を再興するための軍資金を稼ぐため盗賊となり、文禄、慶長期に江戸中を荒らし回ったらしい。同時期、同じく江戸中心に関東を荒らし回っていた大盗賊団がいた。この盗賊団は豊臣秀吉に滅ぼされた北条氏に使えた乱破(忍者)の風魔一族だった。元々、破壊工作のプロだった風魔一族はそのスキルを生かし、火付け、人殺し、盗みで暴れ回る「悪の忍者軍団」として恐れられていた。

 甚内はこの商売敵をつぶすため、大胆な策に打って出る。自らも盗賊団の首領にもかかわらず、江戸町奉行所に「関東を荒らし回る盗賊の首領たちは風魔の子孫ども」と密告。裏社会のネットワークを駆使して「盗賊狩り」を主導し、首領の風魔小太郎を捕縛させた。風魔小太郎は慶長八年(1603年)に処刑されたことで、甚内は裏の世界の王者としての地位を確立するに至った。計算通りである。

 幕府にとっては毒をもって毒を制したわけだが、商売敵がいなくなった甚内がおとなしくしているわけがない。その後、大勢の手下を集めて江戸や関東だけでなく、日本全国を荒らし回るようになった。

 ある意味、功労者だったが、さすがの幕府もいつまでも黙っているわけがない。慶長十八年(1613年)に、大盗賊として捕らえられ、市中引き回しの上、浅草原で磔(はりつけ)にされた。捕縛された際に甚内は瘧(おこり)、今でいうマラリアを患っていたという。そのため、死に際に「瘧がなければ捕まらなかった。今後、瘧に苦しむものはわれに念ずれば治してやろう」と言い残したと伝えられている。そこで人々は処刑場のあった場所に祠(ほこら)を建てた。その祠はJR浅草橋の近くにひっそりとたたずむ「甚内神社」である。

 今回、そこを訪れたが、近隣の人には瘧だけでなく「病気平癒」の神社として親しまれており、きれいに手入れされていた。歌舞伎にも登場するかつてのダークヒーローだけに、持っている力は絶大。御利益十分だろう。

(デイリースポーツ・今野 良彦)

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